2012/08/18
2012年8月3日私は千代田区外神田の箸勝ビルに伺った。
神田錬成館の総師範の山本権之兵衛先生から招待状をもらっていたからだ。
この日はサカ坊主催の飲み会が三田で行われる予定だったが、どうしても山本権之兵衛先生を訪ねたくて、サカ坊には二次会に参加する旨伝えておいた。
山本権之兵衛先生から招待状だが CAFE and
Wineのお店の開店前のご招待だ。
行ってみると都会のど真ん中のビルの2階で今風のしゃれたお店だ。
山本師範や神田錬成館の以前お見かけした師範もいらして早速ご挨拶した。
CAFE and WINE 0'84 で 左 山本権之兵衛総師範 右 園田康博
このビルは自社ビルで以前は道場として使っていたこともあり現在は倉庫として利用していたが今度こういうお店を開店したとのことだ。
山本先生は事業もいろいろ手広くやられているようだ。
戦後のいろいろ面白いお話をたくさん伺った。
ひとつにプロレスの力道山が全盛期の頃いろいろ彼を主人公にした映画が作られており、その内のいくつかは私も記憶にあるが、その中で山本先生が悪役の空手使いで出演したことがあるそうだ。
相手は坂口征二。明治大学の柔道部出身で全日本シャンピオンである。ヘーシンクに体力でも負けない大型の強豪であったがプロレスに転向した。
俳優の坂口憲二は息子である。
そこに一人の飄々とした老紳士が現れた。
宮永東野氏だ。神田錬成館の役員をやっておられる方だが明治大学の拳闘部出身で戦後ボクシングジムやキャバレーを手広く経営されていた由。
キックボクサーの沢村忠を育てた野口ジムの野口修氏と親友だったそうだ。
終戦のとき富永氏、野口氏二人はそれぞれ中国の北京、上海にいて、そういうこともきっかけで交友関係ができたということだ。
沢村忠は本名は白羽秀樹で日本大学の空手部で剛柔流の空手をやっており、私より5歳位上だが当時から蹴りの名手として名前を聞いていた。
宮永東野氏がまだ学生の頃、野口修氏の家に遊びに言ったとき、お母さんがいろいろごちそうしてくれるのだが、やはり男同士の話もしたくて、中国語で男の話を切り出すと、お母さんが「ハイハイ私は邪魔のようね」と笑いながら奥に引っ込まれ、お母さんも中国語はわかるのかと顔が赤くなった話などもおもしろかった。
私が赤坂に事務所を移したのは昭和57年でこの年赤坂のホテルニュージャパンが大火で燃え落ちた。
その焼ける匂いは私の事務所にも届きしばらく匂っていた。
ホテルニュージャパンは買収王として有名な横井英樹氏が所有したものであったが、ここは二・二六事件の際に部隊が立ち寄った日本料亭「幸楽」の跡地に建てたものである。
宮永東野氏は当時近くの六本木界隈でも手広く商売をやっておりいろいろなゴタゴタもあったそうである。
そういえば赤坂に「無限」という有名なディスコがあった。
黒人のミュージシャンが生演奏をしており、そこに私が学生の頃連れて行ってもらったことがある。
コラム「平成23年度夏期合宿 その5 熊谷さんの思い出」で書いた熊谷鉄鋼の専務熊谷さんにだ。
一緒に行ったのがアメリカから来た女子高校生たち。その時は10数年後に企業してこの近くに事務所を開くことになるとは思いもしなかったのだが。
私は赤坂に事務所を開いて、早々バブルの洗礼を受け、アークヒルズや六本木ヒルズの地上げに絡んだ様々な影響を受けることになる。
私も若かったし、血の気の多いわりに知識には乏しく、いろんな事があったが良い経験も積ませてもらった。
宮永東野氏の話を聞いてあらためて氷解するいろんな事が思い出された。
しかし日にちのたつのは早いものだ。
かのカフェからみると秋葉原のいろんな店の看板がきらびやかに良く見える。
山本先生がほとんどの店は中国資本が入っていますとの言葉に時代を感じた。
適法の範囲でビジネスの競争をした結果であれば事実は事実として受け止めなければならない。
かつてバブルの時、日本企業が爆発的に世界に進出した。
それを揶揄するようなハリウッド映画も生まれた。
グレムリンやロボコップのシリーズだ。
日本はどうなるのか、どうするのか、そしてどうすべきなのか。
昔話を懐かしみながらそういう事も考えつつ山本先生と別れた。