平成23年度夏期合宿 その5 熊谷さんの思い出 

2011/08/21

気力で右中段回蹴を放つKumagai3級(左)            ガードの手が下がったところを上段回蹴を極めるSonoda(T)二段(右)

 

 

熊谷さんは、慣れない場所で緊張気味の私ににこやかに手を差し伸べて握手をされました。

その席には外国人の方も数名いて(白人の他黒人の方もいました。)、皆酒も入って楽しそうに歓談しています。

 

店の奥には真っ白な外国製のグランドピアノとヤマハのエレクトーン(足鍵盤もフルスケールの大型)、脇にアコースティックのベースがありました。

店に入ったときはそのエレクトーンを綺麗な女性が弾いていました。

 

熊谷さんは私を隣に座らせ、大学では何を専攻しているのかとかピアノは誰に教わったのかとかいろいろ質問してきました。

やがて女性のエレクトーンの演奏が終わり、今度は君が何か演奏してくれ突然指名されました。

 

私は予め用意していたジャズのスタンダート曲集をピアノの譜面台に置き、さて何をどのように弾こうかと考えているうちに熊谷さんはかつかと歩み寄って私の楽譜をペラペラとめくりはじめ、これを演奏してくれないかといきなりリクエストされました。

 

その曲はナットキングコールで有名な「トゥーヤング」でした。

演奏したことはなかったのですが有名なスタンダード曲ですから知ってはいました。

 

私は即興でバラード風にアレンジして弾き始めたのですが、2コーラス目に入ると熊谷さんは歌いはじめられました。

入り方がとても自然で歌も上手でした。

 

初めてなのにすっかり意気投合した歌と伴奏になり私も楽しくなってきました。

そうするとさっきまでボックスで座っていた外国人の一人(白人)がそばに来ていきなりベースを弾き始めました。

 

とても上手でこれはプロかもしれないなと緊張が走りました。

熊谷さんが歌い終わり拍手が起こると突然入れ替わりに背の高い黒人が、楽譜を持って来て「これを歌いたいから伴奏してくれ」というのです。

 

知らない曲でした。

冷や汗が流れます。

 

彼等はいったいどんなグループなんだろう。

恐らくはアメリカのプロのジャズミュージシャンに違いありません。

 

とんでもない事になりました。

私はクラシックは小さいときからやらされていましたがジャズは大学に入ってからはじめたバリバリの初心者だったのです。

 

顔を見ると、ジャズの神様マイルスデビスにそっくりです。(サングラスをしていたので黒人であれば誰でもマイルスそっくりに見えるのです)

あの野郎(拓大生)とんでもない所を紹介しやがって。

 

もうバイトなんて感覚はすっ飛びました。

何かのオーディションを受けているような心境です。

 

「リズムは」と聞くと「フォービート」と一言。

イントロは適当にやってくれどこからか入るからとといっていきなりカウントを取り始めます。

 

私が適当にコードだけを頼りにイントロをアドリブで演奏しはじめるとベースはすぐ付けてきました。

と、その時です。

想像を絶するトーンでマイルス(以下彼の名をこう呼びます)はいきなり歌い始めました。

 

 

マイルスデビス モダンジャズの帝王と呼ばれる        ナットキングコール歌手・ピアニスト ジャズピアノトリオの創始者 

 

 

「え?わからない」。 彼がどの小節から歌い始めたのか、そして歌詞も分かりません。

いきなりアドリブで歌われたのです。

 

頭の中が真っ白になりました。

とりあえずベースを頼りに楽譜のコードを追っかけるだけで精一杯です。

 

ベースの進行を聞いていると少なくとも小節は追えているようですが歌が全くわかりません。

初めての曲でもありネイティブの英語は歌詞で場所を追えないのです。

 

ものすごく高度なインプロビゼーション(即興)に違いありません。

私の能力では音痴にしか聞こえないのです。

 

どうしたら良いのか分からなくなりました。

ベースはかまわずどんどん弾いていきます。

 

こうなれば頼れるのはベーシストだけです。

私は彼を見ました。

 

「あれ」

もしかしたら、ベーシストは笑っています。

 

いやはっきりと笑い声が聞こえました。

マイルスも笑っています。

 

そうマイルスは音痴だったのです。しかも真性の。

彼は日本に駐留している米軍海兵隊の隊員でした。

 

我々は黒人というと皆足が速くてリズム感が良くジャズが得意だというような画一的な先入観があります。

黒人は皆カールルイス(現在ならウサインボルト)やマイルスデビスのように見えます。

 

私もかっこ良いサングラスをかけた短髪の筋肉質のこの「マイルス」をジャズの名手に違いないと思い込んだのです。

日本人は皆空手をやっていると思っているアメリカ人が少なくないのと同じです。

 

ベースを弾いた白人はプロ並みに上手でしたが彼も軍人でした。

彼等が熊谷さんとどういう関係なのかは聞いたかもしれませんが思い出せません。

 

当時は日米安保をめぐる学生運動や過激派の運動もさかんで、私はそれとは別に個人的にアメリカ兵を快く思っていなかったこともあったのですが、日本人でもここまで音程、リズムともにひどい真性の音痴には出会ったこともないので、爆笑し同時にあっというまに打ち解けました。

 

熊谷さんは、いつも明るくバイタリティーに溢れ、いろんなジャンルの人がこの店に来ていました。

後で聞いたのですが、この店を作った理由は「接待や会合で銀座の店を使うことが多いのだけど結構経費もかかる。

それなら自分で店を作ってそこに好みのミュージシャンやゲストを迎える方が自由にできるし、コストも掛からない。」

という事だったようです。

 

しかし、これだけの店を作り、人を雇い、一流のミュージシャンを集めるということがどれ程壮大な事業であるか当時は学生の私にはまったく想像もできない世界でした。

 

初日から熊谷さんは私を気に入ってくれ、私も彼の人柄に強く惹かれました。

熊谷さんは、当時としてはめずらしく国際的な視野の広い方で、外国の方とのお付き合いがとても多かったのです。

 

仕事上はもちろんですが、海外の留学生も多く受け入れておられ、ご自宅にはいつも外国の大学生や高校生を家族の一員のように受け入れておられました。

 

当時熊谷さんには高校入試を控えた娘さんがおられ、あるとき私は彼女の家庭教師をしてくれないかと頼まれました。

当時生意気だった私は、「お引き受けしても良いですがかなりスパルタンな教え方をしますがかまいませんか」とたずねました。

 

熊谷さんは君の好きなようにやってくれて構わない、と笑いながら言われます。

そして私は彼女の家庭教師をおおせつかったのです。

 

初対面で私はびっくりしました。

彼女は極端な短髪で野球帽をかぶっておりTシャツに短パンという格好で一見少年に見えました。

 

言葉遣いや立ち居振る舞いも男の子のようです。

こりゃとんでもない仕事を引き受けてしまったと後悔しました。

 

しかし、実際に勉強やピアノを教えるととても素直でかわいらしいお嬢さんで我々はすぐ良い師弟関係になりました。

その娘さんこそ、冒頭で紹介したKumagai3級のお母さんなのです。

 

アメリカにも留学したことがあり英語もペラペラで音楽のセンスもありとても才能豊かな娘さんでした。

また熊谷さんの奥様も今風に言えばバリバリのキャリアウーマンで熊谷さんの会社で仕事をてきぱきとこなす反面、文化的な活動でも手広く活躍されていました。

 

こうして私は熊谷さんのご家族全員とお付き合いさせていただくことになったのです。

ある日私は熊谷さんに一つの仕事を頼まれました。

 

それは、こんどアメリカの女子高校生をホームステイさせることになったけど、大学生と違い彼女達はまだ子供でまったく日本のことを知らない。

彼女達を日本の文化に触れさせたいので、日本の伝統的な建物や文化、武道などを娘にも手伝ってもらって体験させたり引率してくれないかというのです。

 

もちろん私は二つ返事で引き受けました。

娘さんと同じ年頃の子達ですからアメリカ人であっても感性は似ているにちがいありません。

 

ところがその女子高校達を紹介された瞬間びっくりしました。

ホームステイした子達は4人でしたが、見た瞬間これが高校生かと目を疑いました。

 

皆身長が高く一番長身の子は殆ど私と変わらないくらいで、皆美人でお化粧もしています。

日本の高校生とはまるで雰囲気が違うのです。

 

でもこれはとても楽しい経験となりました。

アメリカから来るなりすぐ私と行動をともにすることになりました。

 

最初に行なったのは彼女達のお小遣いのドルを円に換えることでした。

まず、東京を案内する途中日本橋(銀座?)の三和銀行に行きました。

 

銀行では窓口の銀行員に「こんな美人達を引き連れてうらやましいです」と言われました。

銀行の窓口で初対面の銀行員からこういう私的な感想を聞いたの後にも先にもこの一回だけです。

 

お金が手に入ると彼女達は大喜びです。

銀座の全ての店の中に入りたがります。

 

私は、熊谷さんから今日は浅草あたりを案内してやってくれと頼まれていました。

しかし彼女達は銀座がすごくお気に入りのようでなかなか言う事を聞いてくれません。

 

デパートに入ると化粧品のコーナーにはりついています。

そこで化粧品のセールスの臨時モデルのような具合になり、化粧してもらったり、つめに何か塗られたりして大喜びです。

 

日本語の出来ない彼女達から矢のような質問攻めにあいますが私は化粧のことはさっぱりわからず、本当に困りました。

一通り化粧のコーナーで時間をつぶして満足感を得た彼女たちは、今度は着る物を物色しはじめました。

 

ハッピとか浴衣のような着物に興味を示します。

次から次と見て周り、しかも4人ですから私と娘さんではは全く制御不能になってしまいました。

 

結局その日は浅草には行く事ができず、銀座をぶらつくだけで一日が過ぎてしまいました。

しかし彼女たちは大はしゃぎです。ずっと夜まで興奮状態で上機嫌でした。

 

夕食は熊谷さんご夫婦ご夫婦と合流し、フランス料理のお店にご招待を受けました。

そこで今日の顛末をお伝えすると、大笑いされていましたが少しがっかりされているようでもありました。

 

熊谷さんとしてはデパートではなく日本の伝統的な文化に触れさせたかったのだと思います。

しばらくして熊谷さんが彼女達をキャンプに連れて行きたいので一緒にとお誘いを受けました。

 

キャンプは熊谷さんのプレジデントという大きな車で行く事になりましたが、さすがに全員は乗れません。

それで奥様のスポーツカー(フェアレディーZ)を私が運転して彼女たちの一人を助手席に乗せることにしました。

 

フェアレディーZ 当時はやりのロングノーズで最高にかっこ良かったスポーツカー

 

その時「私が乗る」といって飛び込んできたのが一番小柄なメアリーでした。

私は生まれて初めてスポーツカーを運転し、その隣にはかわいい外国の女の子を乗っけるという空手道場では絶対味わえない楽しい状況となったのです。

 

しかし、その後に起きた仰天の場面にくらべるとこんなものはどうということはありませんでした。

メアリーはビートルズが大好きで車の中でよく口ずさんでいました。

 

道すがら道路わきの広告の看板を見て「あれは何?あれは何?」と矢継ぎ早に質問してきます。

温泉の看板があり「蛇の湯」と書いてあります。

 

あれは何?

「蛇の湯」? 私も分かりません。

 

私は、「多分そこは蛇がたくさんいて、そいつらが露天風呂に入ってくる。ヘビはからだからエキスを大量に出し、それはとても人体に良い。しかしヘビは穴に入る習性があるから、蛇の湯に入る人は皆尻の穴を手で隠して入るのだ」と軽いジョークのつもりで話しました。

 

しかし彼女は笑わないどころか何となく顔面蒼白になっています。

ちょっときまづい沈黙が続いた後、トイレ休憩になりました。

 

メアリーは一目散に仲間のところに駆け込み、なにやらゴニョゴニョと話しています。

悲鳴にも似た声や笑い声が混じってにぎやかだなと思っていると今度は4人が一斉に私のところに駆け寄ってきて「スネークバス」について質問の雨嵐となりました。

 

今更冗談だったとも言えずに適当にとぼけていると出発の合図です。

やれやれ助かった。

 

フェアレディーZに戻るとメアリーは「スネークバス」については一言もしゃべりません。

日本に来て一番驚いたことは何? と聞くと。

 

「日本では道路が空を走っている事」

これは多分首都高速を走ったときの感想でしょう。

 

「日本では人は壁の中に住んでいる」

「壁???」

 

これは熊谷さんの家が工場とつながっており、リビングとの通路が床と大きな段差があり、ちょうどドアが壁の中央にあるように見えるからでした。

彼女たちはその通路の途中の部屋に住んでいましたから、それはリビングから見ると壁の中に部屋があるように見えたのでしょう。

 

キャンプ場ではいろいろ楽しかったのですが、とんでもない事態に巻き込まれます。

そのキャンプ場は渓流が流れており、私と娘さん、そして留学生達とその渓流にそって探検にでかけました。

 

水は本当に冷たくてきれいでした。

突然彼女たちが泳ぎたいと言い出したのです。

 

でも水着の用意もしていないし、冗談だろうと思ったのですが、一人が突然服を脱ぎだしたのです。

私も熊谷さんの娘さんも「アワワワワー」といった感じでビックリしましたが止めるまもなく、皆次々と服を脱ぎだしました。

 

当時のアメリカの女子高校生が皆こういう開けっ広げな性格なのか、たまたま彼女たちだけなのかはわかりませんが、外国では公園なんかで裸で日光浴びている女の子がいたり、素っ裸で海水浴をしている写真なんかを見た事かあります。

 

少なくとも当時の日本とはかけ離れた習慣を彼女たちは持っていたのでしょう。

全く予想外の行動で、大抵のことは平気な私も一瞬どうしたら良いのかわからなくなりました。

 

しかし正視するには私も若すぎました。

あとは娘さんに頼んで私はそそくさと退散しました。

 

退散する途中登山着姿の老夫婦とすれ違い挨拶されました。

この老夫婦は数分後わが目を疑う光景を目にしたはずです。

 

この話を夕食の時熊谷さん話すと、「心頭滅却してそこで座禅を組んでいればよかったのに」と笑いながら言われました。

 

 

スネークバスの件で質問攻めの留学生たち。                    私とメアリー

左より、サム、私、メアリー、マリリー

 

古民家風のつくりのレストランで食事。             水車小屋の前で 水浴直前 メアリー、マリリー、サム、リサ

左より熊谷夫人、娘さん、私、メアリー、熊谷氏、リサ、サム、マリリー

 

 

熊谷さんと知り合ったおかげでこうした楽しい経験を次々とさせてもらったのです。

私の大学生活は熊谷さん抜きで語ることはできません。

 

熊谷さんには空手道場設立の時もいろいろお世話していただき力になっていただきました。

また、私がコンピュータソフトの会社を立ち上げた時もいろいろ仕事の上でお世話になりました。

 

当時はまだ民間会社では珍しかったコンピュータを熊谷さんの会社に導入するとき、私の会社からハード、ソフトともに導入して頂きました。

数千万円単位の仕事で、独立して最初の大きなプロジェクトでした。

 

また仕事だけでなく、音楽家や他業種の多くの経営者の方々も紹介いただき、その多くは現在も付き合っていただいています。

 

今回の合宿で大活躍した現空研のKumagai3級はこの熊谷さんのお孫さんなのです。

 

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