ヒット カウンター

若者に告ぐその4(京都の思い出)


出村さんのトラックを運転することにに感激し、興奮さめやらぬ頃、我々を更に興奮させる事件が起こった。

それは、三谷さんの息子Mさんが本物のスポーツカーを購入したのである。
車は日産ブルーバードスリーエスクーペ。1600cc5段変速機付である。

夢のような車であった。ヨダレがでた。
Mさんは、得意の絶頂であった。

毎日車をワックスで磨きあげ、宝物のように大事に大事にしていた。
あるとき、Mさんは、我々悪ガキグループにドライブに行こうと誘ってくれた。

我々に反対する理由は何もない。
我々は琵琶湖に向かって初ドライブへ出かけた。

まだできて間もない琵琶湖大橋を渡ってみようということだった。
さて、いよいよ渡る段になって、Mさんは急に車を止めた。

M 「お前ら金持っているか」
我々「少しなら・・・・・・」

M「琵琶湖大橋の有料道路代皆でワリカンな、いいな、な」
我々「え!・・・・あ、はい、いいです」

こうして、我々は琵琶湖大橋をわたり、初ドライブから帰ってきたのである。
帰宅すると、Mさんは、
「どうやおもしろかったやろ」
「ところで、今日のガソリン代やけどな、皆学生で金持ってないやろから、タバコでええわ」

我々は皆タバコ1箱づつMさんに取られたのである。
自分から誘っておきながら飛んでもない搾取である。

しかし、そこは世間知らずの我々のこと、唯々諾々として従うばかりであった。
このようにMさんはのケチは徹底していた。

(しかし、後日、我々の仲間の一人のお母さんが亡くなったとき、Mさんは泣きながら帰省する彼に、びっくりするような高額の香典を包んでくれたのだった。
我々から見てMさんは、やはり大人であり、彼からは本当のやさしさと多くの常識を教わった気がするがそれに気がついたのは、社会人になってからのことである)

これで黙って引き下がるような我々ではない。
あるとき我々はこのブルーバードを我々だけで試運転することを企む。

鍵のありかは知っている。
問題は玄関の前のガレージでどうしてエンジンをかけるかだ。

深夜、エンジンをかければMさんが飛んで来ることは間違いない。
我々は知恵を絞った。

そして妙案がうかびあがったのだ。
この場所は、霊鑑寺から市電が走っている白川通りまでずっと下り坂が続いているのだ。

つまり車庫から何とか車を出すことに成功すれば、後は白川通りまでエンジンをかけずに惰性で走っていくことが可能なのだ。

そして我々は実行した。
深夜、皆が寝静まった頃を見計らって車を車庫から人力で押し出した。

ギアをニュートラルにし、音を立てないようにゆっくりゆっくり道路まで運んだ。
そして頭を坂の下に向け、全員乗り込んだ後、クラッチを踏んだままゆっくりブレーキを緩めていく。

山吹色のブルーバードスリーエスクーペはスルスルと音も無く、白川通へ向かって滑るように進んでいった。
「ヤッター」
思わず歓声が上がった。

哲学の道を横断する頃我々はエンジンをかけた。
ブルバードスリーエスクーペは一瞬身震いするように車体を震わせて力強いエキゾーストノートを発しながら息吹を開始しはじめた。

我々は有頂天であった。
車の殆ど走っていない白川通を銀閣寺に向かって100キロ位のスピードで走らせた。

銀閣寺を左折し今出川通を百万遍に向かって走る、走る、走る。
百万遍は京都大学の前である。

百万遍を左折し、丸太町に向かってひた走る、タコメータは何度もレッドゾーンを振り切った。
東山丸太町の交差点を赤信号のまま160k位で突っ走った。

もう無茶苦茶である。
我々は単なる馬鹿の集団であった。

ヒールアンドトゥーというテクニックが流行っていた。
足は2本しかないのに自動車のペダルは3個ある。

この3個のペダルを同時に操作して車をより俊敏に走らせるテクニックの一つがこのヒールアンドトゥーである。
当時の平凡パンチとかプレーボーイといった男性向け娯楽週刊誌の自動車特集なんかで読んで知識としては知っていたのである。

カーブなんかで減速をする必要があるときブレーキングとシフトダウンを同時に行うのだ。
こうすることによってエンジンの回転も維持でき、コーナーからの立ち上がりが速くなる。

「知って行わざるはこれいまだ知らざるなり」
我々は四条河原町の交差点でこれをやった。

生まれて初めてやったヒールアンドトゥーは見事に成功した。

かに見えた。
京都中に響き渡るようなタイヤの悲鳴とともに車のスピンというものがあんなに簡単に起こることを知ることになる。

我々は交差点で3回転し、歩道との段差に激突してやっと止まることができた。
我々の宴はこれで終わった。

つづく

トップページへ