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若者に告ぐその5(京都の思い出)


横転しなかったのは奇跡的だ。
(私は学生時代他にも雪の積もった千葉の流山街道で下の田んぼに突っ込むという事故を起こしたことがあるが、このときも横転しなかった。車は横転させるとまずオシャカになるが、横転させないと意外と被害が少ない)

深夜の交差点であり、通行人もなく交通量も少なかったので、幸い他の車との接触や人身事故にもならなかった。
歩道との段差にうまくタイヤが接触して反動で道側におしかえされてスピンしたので奇跡的に車も無傷ですんだ。

しかし、いかに無神経な我々でもさすがに精神的なショックはかなりのもので、意気消沈しおとなしく帰路についたのだ。

どうやって車庫に(無音で)戻したのかは記憶がさだかでない。
おそらく安楽寺の方から霊鑑寺に回り、そこから下り坂を利用してエンジン停止の状態で車庫入れしたのだと思う。

次の日の朝Mさんは、昨夜の大事件には一切気付かず車を運転して行った。
しかし、あれほど異常とも思えるほど車を大事にし、毎日手入れをかかさなかったMさんが、ガソリンの残量や距離計をチェックしないはずがない。

外傷は無かったとはいえ、タイヤにはかなりの痕跡が残っていた。
本当に気が付いていなかったのだろうか。

もし、異常に気が付いていたとしたら、あの下宿でこんなことするのは私以外には考えられない。
しかしMさんは私が京都を去るまで一度も咎めることは無かった。

実は、その後私は大学時代に一度京都に旅行したおり、三谷さんを訪ねたことがある。
そのときは、Mさんや妹のKちゃんと再会できた。

独身だったMさんは結婚しており、お嫁さんにもお会いできた。
威勢の良かった植木職人の出村さんも結婚されたという話を伺った。

悪がき連中のその後の話もいろいろ聞けたのだが、この車の一件だけは、その時言いそびれてしまった。
今回こそ、お詫びをしようと思っていたのだが、何とMさんは若くして亡くなっておられたのだ。
残念である。

ご迷惑の数々お詫び申し上げるとともに心よりご冥福をお祈りいたします。

京都の思い出は空手以外にもまだまだ山のごとくある。
アメリカからの留学生で空手の後輩であるダニエルとの様々な思い出や事件。

今考えるといかに多くの人にとんでもない迷惑をかけていたか、おそらく現在も気が付いていない悪行もあったと思う。

もし、関係者の方でこのホームページをご覧になっていたら心よりお詫び申し上げますので宜しくお願いいたします。
そして、時効ということでもしお許しいただければ望外の喜びです。

私は、現代の若者の常識はずれの迷惑行為を見るにつけ、自分の若い頃の行動を思い出す。
流儀やパターンは随分変わってきているが、共通して言えることがある。

それは知識の欠如だ。
知識というより常識、それも社会通念とか慣習しきたりに関する分野の作法だ。

例えば、挨拶だ。
「最近の若者は挨拶もろくにできない」という言葉は良く聞くが、それは何も最近はじまったことではない。

私が若い時代にも常に大人はそう言っていた。
そして私もろくに挨拶ができなかった。

私がちゃんと挨拶できなかったのは、なぜか。
悪気があったり、敵対心があったからか。

全然そんなことはない。
知識が無かったのだ。

どういうときにどんな挨拶をすれば良いかという知識がまるで無かった。
昭和23年生まれである私の時代でさえ、既にこういう社会常識に関する教育はほとんど無かった。

私が、挨拶に関する知識を得たのは、社会人になってからである。
私だけでなく戦後生まれの殆どの日本人は社会常識に関する知識は、学校の正規の授業ではなく、運動部の先輩や柔剣道、空手の道場、その他の稽古事などを通して知ったのではなかろうか。

そして、社会人になり会社の新人教育などで体系的な知識となったはずである。
特に、営業など外回りの仕事についた者は徹底的な教育を受ける。

また、仕事そのものが訓練の場でもあるだろう。
しかし、不幸にしてこのような訓練を受ける機会が無かった連中がいる。

外部のお客さんと接することの少ない専門職や研究職の連中だ。
コンピュータの技術者なんかもこれに類する。私もそうだ。

本人に悪気がなくとも知識が欠如していれば、失礼な態度や言動を結果的にとってしまう。
そして本人は気付かないので誰かに注意されるまでは直ることはない。

私は29歳で独立、会社を起こしたが、ありとあらゆる社会常識が欠如していたと思う。
銀行に最初の融資を頼みに言ったときも、誰にどういう挨拶をし、どういう口上で何を言えば良いのか全然分からなかった。

いきなり、窓口で女の子に「ちょっと金貸してくれよ」じゃ強盗に間違われる。

業務の内容や顧客の情報、こちらの知識や今までの実績、これからの展望や営業方針など、本質についてはそれなりの知識や考えはあった。(今考えると幼稚なものではあったが)

しかし、最初の儀式がわからない。
細かい話、名刺の出し方や最初の口上に苦労した。

いきなり本題に入るわけにもいかない。
会社設立のことはまた話が長くなるので今回は触れないが、要するに社会常識が無いということが、若者をとんでもない言葉や行動に走らせる一番大きな原因である、ということを言いたいのである。

もし、私が再度若者をやり直すことができたとしたら、まずこうした社会常識(それも初歩的でかつ身近なもの)の獲得を積極的に行いたい。

もし社会常識がもう少しあったら、喧嘩の数は激減したと思う。(もちろん相手にも社会常識が必要だが)
つまらない、言葉上のすれ違いや誤解、無神経な態度などにより、なくても良い摩擦を多く生んだことは事実である。

幸いと言うべきか不幸と言うべきか判断に迷うが、九州は日本の中では長幼の序が比較的うるさい所だ。
また男尊女卑という言葉があてはまるかどうかは疑問だが、様式として男を立てる風潮もある。

例えば、小学校時代の名前の呼び方だが、(これは筑豊地方だけかもしれないが)喧嘩の強い者は弱い者を呼び捨てにしていた。
同等か同等以上の相手は君づけだ。(大人になると君づけは同年か年下のみが対象になるのだが)

また同級生でも男子は女子を呼び捨て、女子は男子には「さん」づけであった。これは例外は一切なかった。
一方上級生に対しては男女の差なく全て「さん」付けだった。

これは、総合すると結構大変なルールだ。
フローチャートで描けば、まず最初の分岐は「年上か否か」で次が「男か女か」であり最後が「強いか弱いか」である。

初対面の場合は、まず男女はすぐ分かるとして次に年齢を探らなければならない。
年齢差があれば、後はしきたりに従うだけだ。

問題は同年の場合だ。
何らかの決断をしなければならない。

一番無難な線はとりあえず互いに「君」付けで呼び合うことだ。
少なくともこれは相手を見下す言葉ではない。

問題は相手が自分を「呼び捨て」にした場合だ。
これは、その場でクレームをつけなければ、相手の優位を受け入れたことになる。

受け入れたくなければ当然こちらも呼び捨てにする。
子供の場合は、これが大体宣戦布告の合図になって喧嘩がはじまるのだ。

勝負が決まれば後は、勝ったほうが相手を呼び捨て、負けた方は相手を「君」付けで呼ぶようになる。
新学年でクラスが変わったときは最初にこの序列決定の儀式が必ずあった。

最もこの儀式に参加するのは、腕力に多少自信がある子であって、最初からポジションに興味のない子は参加しない。
しかし、この場合は呼び捨てにする権利は一切なくなる。

これは、中学校まではほぼ守られていた。
中学校では、例外的な「ちゃん」付けがあった。

これは、喧嘩が強かったり、勉強ができたり、何らかの特技があったり、つまり尊敬される要素がある子は本名あるいはニックネームに「ちゃん」が着くのだ。

松尾君という学校一の秀才でブラスバンドの部長をしていた子がいたが、彼は「松っちゃん」と呼ばれていた。

私と同級生で勉強でもスポーツ(特に相撲)でも常にライバルだった塩川君は「ガマちゃん」と呼ばれていた。(顔がガマに似ていたからだと思う)
不肖私も「ソンちゃん」の愛称を賜っていた。

しかし私と塩川は常に対抗意識を持っていたのでお互い決してこの愛称では呼び合わず、互いに名前の呼び捨てだった。(塩川君とは数年前にそれこそ40年ぶりくらいに再会した)

Sさんという一学年上の子がいて、女の子なのだが凄い秀才がいた。
彼女は筑豊の名門鞍手高校に進学したが、病気で一年遅れてしまった。

つまり同学年になったのだ。
私は彼女の呼び方で悩んだ。

同学年の女は全て呼び捨てが慣習だ。
しかし、彼女は年齢が一つ上である。

私は本人の前では「さん」付けで呼んでいたが、男同士の会話の中では呼び捨てであった。
これがひょんなことで本人にばれることになる。

私が高校に入学した頃、中学時代の友達に手紙を出した。
文中彼女のことを話題にしており、その時の男の友達は君付けで彼女呼び捨てだったのだ。(○○君とS)

この手紙をどういうわけか彼女が直接読む事態が発生したのだ。
彼女から葉書をもらった。

文中「○○君とS」というくだりがあり、大変恥ずかしかった。
彼女は京都大学文学部に現役で入学し、卒業したあと医学部に入って現在お医者さんのはずである。

彼女は大学時代も病気の療養で福岡に帰省したりして同じ京都を舞台にしながらすれ違いが多かったが、手紙のやりとりはあった。
トイツ文学専攻で凄い文才の持ち主で、療養所の中の人間関係や社会現象を知性とユーモア溢れた筆致で書かれており彼女の手紙は連載小説のように楽しみであった。

私は大学時代三谷さんを訪ねたおり、大学に復学した彼女のアパートに泊めてもらったのだ。
この時も私がいかに無神経だったかがわかる。

彼女はそのときアパートで後の旦那さんになるやはり京都大学の学生と一緒に生活していたのである。
私は彼女のアパートに行ったとき男子学生が一所にいることにそういった配慮がまったくできなかったのだ。

たまたま、同級生が遊びにきているくらいにしか思わなかったのだ。
私は、東京理科大学の友人と二人で彼女に厚かましくもここに泊めてくれと頼んだ。

彼氏(後の旦那さん)も極端に人の良い人で、4人で談笑した後「俺今日は失礼する」とか言って出て行ったのだ。
私が彼が後の旦那さんであったということを知ったのはそれから何年もたって結婚の知らせを受けたときだ。

私は電話で「ほら、あの時の彼」と言われてもまだピンときてなかった。
長い時間の後私はやっと気がつき、無粋というか自分の厚かましさ、感性のなさが恥ずかしかった。

話が脱線したが、昔の九州ではこのように長幼の序、男女の序というものがわりと繊細に子供の頃から存在していた。
まあ言ってみれば大学の運動部がそのまま小学校、中学校に持ち込まれたようなものだ。

これは、ある意味社会常識の訓練になっているのであるが、問題はこういった慣習のない地域や地方の人間との接触である。

九州の男は喧嘩好きであるとか、手が早いあるいはカッとしやすいとは良く言われることである。
しかし、九州人は九州人同士ではあまり喧嘩にならない。(そのかわり喧嘩になった場合は本物の喧嘩になることも多々あるのだが)

つまり子供の頃よりこうした序列に関する洗礼を受けておりある意味訓練されているのだ。
これが他の地方、それもこうした序列にルーズな地方の人間と接触した時に摩擦が生ずる。

私が学生時代に起こしたトラブルの大半は「同年の人間の呼び捨て(お前よばわり)は宣戦布告」という子供時代の社会常識によるものだった。

ルールを知っている事がトラブルを未然に防ぐという法則は同じルールが皆に浸透しているという条件着きである。
社会人になって少なくとも日本の大人としてのルールいわゆる常識が身につくとこういった言葉の誤解などのトラブルは激減する。私はそうだった。

若者にとってやはり、大切なことは知る事である。
社会通念や常識を知る事は無用なトラブルをなくし本来の自分の意志を通したり、やりたい事にエネルギーを集中させることができる。

大人に注文したいのだが、こういった知識の無い若者に対してはこれを教えて欲しい。
その時は嫌われたり煙たがられてもやがていつかは分かってくれるものだ。

私は出村さんには荒っぽく教えられたしMさんや木田さんにはやさしく教えられた。
その事を今になって大変感謝している。

私のこうした失敗談や体験を語ることが現在の若者への何らかの良いメッセージになることを願う。

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