昨日(平成14年10月5日)は、広島に行っておりました。
大変親しくし、また尊敬もしていた友人、K君が亡くなったからです。
彼は、修猷館の同窓でした。
高校時代はもちろんのこと、浪人時代も楽しい思い出が一杯あります。
彼は、壱岐の島の出身でした。
3人兄弟の末っ子でしたが、大変優秀で当時九州一の名門校であった修猷館をめざして福岡の中学校に転校してきたのでした。
修猷館入学後、私も、出身は筑豊の炭鉱からのいわゆる越境入学でしたので、何となく話があったのでした。
ただ、性格や生活態度はまったく逆と言ったほうが良いくらいかけ離れたものでした。
髭が濃く、熊のような外観からは想像できないような繊細でやさしい気持ちの持ち主で、常に自分のことより相手のことを考えるといった善人を絵に書いたよう人物でした。
また、勉学においてはいわゆる努力型で、こつこつと地道な学習を積み重ねるといったタイプでした。
当時英語が大嫌いだった私は彼に英語の学習法をたずねたことがあります。
彼の解答は単純なものでした。
「英語は単語じぇ」
「単語をかたっぱしから丸暗記したらよか」の一言でした。
彼は、一日一ページづつ研究社の英和辞典を頭から暗記していました。
私は、丸暗記というものが大の苦手だったので、こりゃとても真似できん、と思いましたので、
「こん方法ば、俺には向かんけん、別な方法はなかとや」
と聞くと、
「丸暗記には畑のたがやしと種まき、そして刈り取りがあるとじぇ、お前は刈り取りばっかり考えるけん丸暗記できんったい」
とのことでした。
彼の言うには、辞書を丸暗記するにはまずそのページをザーと目を通して目を慣らす。
これが畑の耕しということで、次に暗記できなくても良いというくらいの軽い気持ちで単語の意味を頭の中で反復しながら紙に書く。これが種まきだそうです。
最終的には、絶対覚えるという信念で念仏のごとく唱えながら覚えていく。
そして場合によっては食べてしまえ、というものでした。
彼は、
「俺は貧乏やけんこん辞書食べてしもうたら、後買えんけん食べんばってん、お前やったら食べられろうも、試してみちゃりやい」
何ともすさまじい勉強方でしたが、根性のない私は彼のアドバイスに従うことができず、その後3年も浪人するはめになったのです。
私は、その後京都で浪人生活をおくり、勉強も多少しましたが、親元を離れた開放感から、空手をやったり、また悪い遊びを覚えたりしました。
Kは、一年浪人した後、広島大学の医学部に入り、医学の道に進むことになるのです。
私は、彼が広島大学の学生だったとき、一度だけ彼を訪ねたことがあります。
夏休みなのに彼は故郷に帰省していなかったのです。
理由は、彼は当時今でいうならボランティアということになるのでしょうか、
親のいない子供たちの面倒をみたり、勉強を教えるという活動(もちろん無報酬)を行っており、夏休みで仲間の多くが帰省してしまい子供たちがさびしい思いをするので、自分は夏休み中ここに居るというわけです。
当時、スナックやキャバレーでバイトをし、ホステスにむらがるチンピラと喧嘩ばかりしていた私は、そのあまりの日常の違いに愕然とするとともに、深く彼を尊敬したものでした。
私は、一日だけ彼のボランティアに同行しました。
多くの子供たちの歓声と笑い声、その中でにこにこしている彼の顔を今でも鮮明に覚えています。
彼は私のことを空手の強いお兄さんだよ、と紹介していました。
夜は、二人で広島の繁華街で飲みました。
彼は、あまりにまじめなのでよく黒っぽいスーツを着ていました。
そして若いころから毛深くて、頭の毛が多少くせがあったのでスキンヘッドに近い坊主頭でした。
私も、帰省の途中でしたのでクリーニングしたての埃ひとつついていない立派ながくらんすがたでした。
このまじめすぎる二人の学生は、夜の繁華街では徹底的に誤解され、今思い起こせば楽しい一晩をすごしたのでした。
彼は、私が長い間浪人をしていて、福岡にあまり帰らなかったとき、私の両親が心配しているだろうと気をまわして、私の家を尋ねて来たことがあったそうです。
そのとき、壱岐の島でとれたサザエをたくさんお土産に持ってきてくれて、お袋を感激させていました。
そのお袋が7年前難病で倒れたとき、彼はできる限りの医学情報を毎日私に提供してくれました。
私はインターネットを通じてその資料をお袋が入院している大学病院に送って担当のお医者さんとも常時連絡をとりあって治療に専念しましたが、お袋は残念ながら亡くなりました。
しかし、そのときのK君の友情は忘れておりません。
親父がガンで入院したときも、いろいろアドバイスを受け力になってもらいました。
彼とは卒業してからは、実際に会ったのはほんの数回でしかありません。
しかし、手紙や電話では時々連絡していました。
わたしが去年の夏体調を壊したとき、彼に電話をしたことがあります。
彼は、自分のことのごとく心配してくれ、いろんなアドバイスをくれました。
私は何かオーバーだなとは思いましたが、彼のまじめさのせいだと思っていました。
私は彼の親身のアドバイスには一向したがわず、また体調も回復しましたので、このこと自体も忘れかけていました。
一昨日の事です。
ハタノ法律事務所からFAXが届きました。
ハタノは、同じく修猷館から九大に行った同窓の弁護士で(高校時代の悪友と飲んだ-続きの続きの続きで登場)Kとも親しい。
そこには、「K君が亡くなった。明日が葬儀だ」との記述がありました。
私は、何がなんだかわかりませんでした。
何かの間違いか、でなければきっと事故にあったに違いない。
私の脳裏にTのことが頭をよぎりました。
同じく修猷館出身で東京医科歯科大学で空手部のキャプテンをしていた親友のことです。
彼はまだ30歳代の若さでいたましい事故で亡くなったのです。
慌てて事務所に電話しましたが、彼は留守でした。
しばらくしてハタノから電話がありました。
空港に向かう電車の中からでした。
電話で彼の死因を聞き驚きました。
ガンだったそうです。
しかも3年も前から。
彼は、自分自身が内科の医師であり、学位も白血病の研究で取ったほどの者です。
もちろん、全ての状況は把握していたそうです。
彼の医者としての姿勢は私は良く知っています。
彼が学生時代に恵まない子供たちのために青春の大部分を費やしていたこと。
そして、彼は医者になって故郷の壱岐の医師となります。
離島は常に医師が不足しています。
彼は、優秀な医師で多くの魅力的な選択を全て蹴って、本当に困っている人たちを助けるべく島に行ったのです。
島に行って少したった頃、学会の発表か何かで私の赤坂の事務所に彼が尋ねてきたことがあります。
「俺は壱岐ではNo2の医者じぇー」彼は自慢げに私にこういいました。
「それでお前、壱岐には何人医者がおるとや」
「3人たい。院長と俺とインターン」
「何や、けつから数えてもNo2やないや」
我々は大声で笑いました。
彼は、医者は常に患者の立場で診療しなければならないと言っていました。
高いところからではなく同じ目線で話をしなければならない。
私は何度も聞きました。
ハタノが弔辞で同じ趣旨の逸話を話していました。
ハタノには、こういったそうです。
「俺は、こんど生まれ変わったら看護士(婦)になりたい。患者と直接接するのは看護士だ。患者にとって親身になってくれる看護士ほど尊い存在はない。ただ、俺は多分医師の免許もとるだろう。医師の資格をもった看護士になりたい。」
彼の学生時代を知る者はこの話をまさに彼そのものの考え方だと理解できます。
彼は2人の子供がいます。
子供が小さいころは、年賀状はいつもこの子供たちの写真でした。
2人とも本当にかわいくて、あの仁王様のような男からどうしてこんなかわいい子供ができたんだ、と噂したものです。
彼は、ガンを知ったとき家族には明かしませんでした。
もちろん、彼はあらん限りの知力をつくしてガンと戦いはじめました。
お姉ちゃんは受験を控えていました。
お父さんを尊敬し、同じ医療の道をあゆみ、りっぱな看護婦になるための短大をめざしていました。
彼はそんな娘を大学に通るまでは心配をかけさせたくないと思ったのです。
彼は、娘が大学に受かったことを知って、安心して自分の状態を静かに子供たちに告げたそうです。
既に、ガンは全身に転移しており助かる見込みはないことを。
今、考えると私が自分の体調不良で彼に電話したのはたぶんこの前後です。
彼は、自分の体調のことは一切口にせず、私の体調のことを殊のほか心配し、具体的なアドバイスをいくつもくれました。
私はもともと健康には自信があったので、相談はしたもののかなりいいかげんに聞いていました。
彼があまり大げさなので、いいかげんに「わかった、わかった」というような受け答えをしたとき「死んだら何もならんぜ」と言った言葉を思い出します。
今そのときのことを考えると、涙があふれてきます。
彼は、自分が白血病の専門家であるにもかかわらず、お兄さんを白血病でなくしています。
彼は、自分で兄を治療しながらどうしようもなく、兄さんを助けられなかったことを悔やんでいました。
「俺がいながら兄を殺してしまった」
悔しそうにそういう彼の姿を思い出します。
私は、葬儀の席でもうひとつ残酷な事実をしりました。
彼にはやさしいお姉さんがいました。
そのお姉さんが何と50日前、病気でお亡くなりになっていたのです。
Kには、知らされていなかったそうです。
Kのお父さんはご高齢ではありますが健在で葬儀に参列されていました。
長男を無くし、今こうして長女と末っ子も無くした年老いた父。
それでも我々の前で気丈に挨拶をされたあと泣き崩れた姿に私はかける言葉を失いました。
多くの病院関係者の方、また真っ赤に目をはらし、嗚咽をもらしておられる多くの看護婦の方たちの姿を見るにつけ彼の人柄が偲ばれます。
Kの息子さんはまだ高校生です。
医療の道を目指して勉学に励んでおられます。
最後の短いけれどりっぱな挨拶のあと言葉につまった姿が忘れられません。
葬儀には、柔道部出身の弁護士ハタノ同じく弁護士のハヤシ、早稲田でラグビーをやった穂師野、北九州大学の英文科の教授になったノジマ(ベトコン)が来ておりました。
穂師野とは本当に何十年ぶりという再会です。
彼から末期のKの姿を詳しく聞くことができました。
本当に何十年ぶりにあった親友とこんな会話になるなんて・・・。
壮絶な戦いの全てを聞くにつれ、私は不覚にも涙をこらえることができませんでした。
K君よくがんばった。
君は負けなかった。