2016/06/21
ここでは心眼の哲学的な考察はしない。
五感の1つである視力に頼らず敵の所作を感知して対応できるかという極めてプラグマクティックな感覚として考えてみたい。
座頭市という盲目の剣の達人を主人公にした映画があった。
1人の盲目の剣の達人が大勢のならず者や腕利きの武士をバッタバッタと切り捨てていく設定だ。
主人公を演じた勝新太郎さんのキャラクターもマッチしていて長く人気を誇ったシリーズものの映画だ。
映画のようにはいかなくてもある程度こうした状況で戦える武道の達人はいるのだろうか。
2年ほど前盲目のピアニスト岩井のぞみさんの事をコラムでとりあげたことがある。 岩井のぞみさんのピアノリサイタルに行ってきた
この中で盲目の彼女が凄いテクニックで難曲をサラリト弾きこなすことに驚いていろいろ彼女に質問した顛末を記している。
これなんかはある意味座頭市の剣さばきに近い感じがする。
音楽の世界ではピアニストでは辻井伸行さんも有名だ。
音楽の世界では結構有名な一流演奏家がいる。
しかし空手の世界ではあまり聞いたことがない。
やはり相手がいる格闘技の世界では無理なことなのだろうか。
しかし自分で試したり統計的なエビデンスを得る事が好きな私は実験を行うことにした。
実験を行うには単なる好奇心だけではなく、より上質の訓練ツールとしての可能性を計る目的もあった。
上質の陳錬ツールといのは次のような考えからの帰結である。
私は空手の目的は人を強くする事と思っている。
そしてその強さの評価は同じ遺伝的資質を持った人間が同じ程度の強度で同じ程度の累積時間訓練を行った時の伸びしろの大きさで測るべきだと思っている。
よく格闘技で一番強いのは何ですか?といった古典的な質問がある。
そこに相撲最強説や空手最強説などいろいろな都市伝説的なものが生まれている。
どんな競技でもその競技で世界一の人を見ればベラボーに強い。
そのベラボーに強い人同士で戦わせて勝った者が行っている格闘技が世界一だとするのは早計だ。
格闘技の技術としての優劣を計るには同じ程度の基礎的な体力を持った者を同程度の訓練量を与え、実戦に近いルールで統計的な有意差がでる程度の人数で戦わせて数理処理する必要がある。
これは言葉で言うほど簡単ではない。
少しやればすぐ効果がでるテクニックもあれば、゛短期間ではさほど効果はないが一定量、一定年数地道に訓練を重ねれば後半急激に強くなれる類のテクニックもある。
格闘技だけではないが人が後天的に身につける技やテクニックというものはそれを獲得する過程にこうした不確定な変数がむちゃくちゃ多いという事を知る必要がある。
私は若い頃はパワー信者だった。
パワーが絶対的だとは言わなかったが、どんなに技やテクニックが優れていても圧倒的なパワーに勝つにはこちらもパある程度のパワーを持たなければ対抗できないと考えていた。
だから筋トレや心肺機能の増大には多大な関心を寄せていた。
現在もパワーを軽視することはないが、ちょっと違う観点から考える事が多くなった。
それは振り返れば自分自身の体の故障が発端である。
若い頃何かのきっかけでゴルフを始めた。
ジャンボ尾崎やジャックニコラスが全盛の頃だ。
彼らは体力がありパワーヒッターだった。
私もパワーは自信があったのでゴルフ自体は下手であったがとにかく飛ばす事だけは誰にも負けたくなかった。
当時はやりのメタルヘッドに最高に硬い長尺シャフトを組み合わせとにかく飛ばす事だけに専念した。
当時赤坂に事務所があったので、東京タワー近くの芝ゴルフ練習所に会社の始まる前早朝練習をした事もある。
当時、タレントの関根勉さんや大関の水戸泉関の顔を見かけた事もあった。
そこで毎日ガンガン打ちまくっていたのである。
もちろん空手のための筋トレもかなりハードに行っていた。
しかしそれが原因だとは思わないが酷いギックリ腰に見舞われた。
完全に治せばよかったのだが甘くみて痛み止めの注射をうって相変わらずハードトレーニングを続けていた。
そしてある日とうとう歩行も困難なほどの激痛に襲われ慈恵医大病院に緊急入院することになった。
一時は一生車いすになるかもしれないとまで言われたが何とか回復できた。
退院してもゴルフのスウイングをやるとやはり腰に激痛が走る。でもゴルフはやりたい。
そこでスイングを左にしたらどうだろうと考えた。
素振りをやってみると全然痛みがない。
これは良いと早速左用の7番アイアンを買ってきて練習場に行ってみた。
まあ何とか振れるが当たっても全然飛ばない。
しかし練習すればなんとかなるかもという感触は掴んだ。
やるなら徹底的にやろうと思い左用のハーフセット一式を新調した。
これから左打ちの特訓が始まった。
最初はボールにまともに当てるのもままならない状態だったのがだんだん当たるようになり飛距離も急激に伸びてきた。
そしてこれが思いもよらない発見につながるのだ。
力の入り加減は感覚的には右で打つ場合の半分も入らないのだが飛距離はさほど変わらなくなってきたのだ。
芝ゴルフ練習場のネットまで時々とどくようになった。
「脱力」の開眼だ。
ゴルフの飛距離は物理的には最終的なヘッドスピードで全てが決まる。
ヘッドスピードを上げるには腕全体を柔らかく使うことが大切だということが体感的にわかった。
そしてシャフトも非力な左に合わせて柔らかいものを選択した事も効果的だった。
シャフトの撓(たわ)みを感ずることでヘッドスピードを上げる加速感も体感することができるようになった。
やがて右も触れるようになった頃私のゴルフのアプローチはまるで違っていた。
今までのように力で持って行く方法からシャフトのしなりを感じながら脱力して柔らくヘッドスピードを上げていく方法だ。
やがてバブルの崩壊とともに私のゴルフ熱も冷めていくのだがこの時の経験は空手に行かされることになる。
脱力の開眼だ。
脱力が圧倒的なスピードそして破壊力を生むということに気が付いたのだ。
そういえば私は中学生のとき垂直跳びで75p高校の時は90cm、調子の良い時は1mくらい跳んでいた。
その時のフォームは一見不格好なものであった。
つまり完全にしゃがみ込む位腰を落としそこからゆっくり加速時間を与えて長く空中時間を保持するような感覚で飛び上るのである。
身体はゴムのように柔らかくしておきひたすら長く加速時間を稼ぐ。
これは立ち幅跳びにも応用が利く。
中学校では学校でトップの記録をもっていた。
これとゴルフの左打ちと共通するもの、いわゆる脱力と結びついたのは40歳を過ぎてからだった。
きっかけは怪我。
右が使えないというハンデの中での工夫が光を見出したのだ。
現在私は道場で特に上級者には口うるさい位脱力を要求する。
これは自分の実体験で掴んだ極意だからだ。
しかし、なぜこれに気付くのにこんなに時間がかかったのだろう。
それは人間は基本的には頭が固く、五体満足な状態ではそれまで狭い範囲で上手くいった成功体験からなかなか逃れられないからだと思う。
先生や指導者、コーチあるいは有名選手の体験談など何を聴いても結局自分というフィルターを通して見てしまう。
良いと言われるトレーニング方法など数あるうちで自分の感性にフィットしたものだけを取捨選択している。
現在はネットなどで情報はあふれかえっている。
トレーニングの方法など腐るほど新しい手法が紹介される。
どんなに優れた方法でも人は自分の感性にフィットしなければそれを受け入れはしない。
そういう意味では情報の少なかった昔と情報があふれる現代はそれほど差はないのかもしれない。
ここで心眼という言葉が私には心に刺さるものがあった。
私が脱力に開眼したのは右が使えないという身体状況が出発点だ。
つまり人間の機能で何かを不自由にすればそれを補うための力や工夫が生まれてくる。
それは大脳を使った意識的なものもあるだろうが、もっと本能的感覚的、反射的な生き物としての根源的な力、おそらく普段は眠っている。
それが生存本能としてよみがえってくるのではないだろうか。
盲目の人が杖一本で凄いスピードで道路を歩く姿は驚異である。
腕の無い人が足でピアノを弾くのをネットで見た事がある。
私は暗闇でかすかな物音を聞いた時耳たぶが自然に動くという体験がある。
犬や狼は耳を動かして音を探るような動作をする。
人間にも太古は皆持っていた機能なのではないだろうか。
それが何かの拍子で蘇ることがあるというこではないかと思っている。
人間というより生物は何かが足りないとそれを補うように身体が反応するようにできているのではないか。
とするならば意図的に不足の状況を人工的に作ってその環境でもがくというよな稽古をすれば効率的に対応能力を開花させることができるかもしれない。
その一環として最近始めたのが目をつぶって組手を行う。
いわゆる心眼で戦うという試みだ。
一か月位上級者を対象に行っているのだが驚くべき発見がいくつもある。
最初は全然組手にならないだろうという予想で行った。
道場の真ん中で目をつぶってみるとよい。
本当に暗黒の世界でこれで組手? 無理無理!! という感覚に襲われる。
まあ恐怖のどん底だ。
歩くのでさえ怖いのだから。
しかし実際にやってみると。
次の動画をご覧頂きたい。
赤(心眼) SonodaTakesi二段 白 Morikawa二段 クリックすると動画が始まります。
これは良くできた者の動画ではあるが。
一見本当に目が見えないのかと疑う瞬間もある。
少なくとも相手に背後に回られる事は殆どない。
対戦した者の感想も、驚くべき感覚で自分の位置を読まれてしまうので驚いたというものが多い。
心眼の側の感想を聞くとわずかな足音や衣擦れの音、そして息遣いなどが驚くほど感じられるという。
足音は審判と対戦者も聞き分けられると言う。
人間の五感の補完性が如何に優れたものかという事がわかる。
そして回を重ねる毎に対応能力は素晴らしい勢いで成長していくことも分かった。
社会人が限られた稽古時間で効率的に強くなろうと思えばこうした鍛錬も意義があるのではないか、という想いを強く持った次第だ。