政治家はなぜ「お願いするのか」その3

2010/08/04


戦争で勝った国は当然その戦争を正当化する。

というより、少なくとも正当に見えなければたとえ独裁国家であっても挙国一致の戦争遂行は不可能である。

 

次に敗戦国の処理だが、敗戦国も当然正当性を主張して戦ってきたわけだから、まず復讐させないために戦力の無力化は計らなければならない。

次に思想的な根拠を根絶する必要もある。

 

アメリカのGHQはこの双方を実に巧みに行った。

というより、あまりにも日本が敗戦の経験がないため抵抗力が無さすぎたというのが実態だろう。

 

その証拠にアメリカはベトナム戦争でも湾岸戦争でも対日戦のようには上手に処理できていない。

逆に日本であまりに上手く行った事で戦後処理を甘くみるようになったのかもしれないが。

 

戦争と喧嘩は規模は全然違うが本質はよく似ている。

はじめた以上は勝たなければならない。

 

もちろん「しない」に越したことは無い。

しかし、純粋に喧嘩を「しない」という選択を取り続けることができるのは、聖人か神様くらいの圧倒的権力の持ち主でなければ不可能だ。

 

なぜなら人は個人で生きているわけではないから。

一生の間には、とてもがまんならない仕打ちを受けたり、人間として許せない暴言をはかれたり、あるいは弱いものいじめを目の前でみたり、つまり黙って見過ごすことのできないようなシーンに出会う事は一度や二度は必ずある。

 

もちろんこれらを罰する正当な社会的システムはある。

しかし、完全なシステムは存在しない。

 

だから良い人であっても喧嘩を起こす事はある。

むしろ良い人であればあるほど義憤でこうした行動起こす確率は高いかもしれない。

 

しかし、大抵の良識人はガマンをしようと努力する。

なぜなら、社会人であれば、個人的に喧嘩をするということで周りの多くの関係者に迷惑をかける事になるから。

 

それでもガマンの限界を超えることはある。

神様であれば超法規的権力で正当に罰しおとがめも無いのだが、人はこうはいかない。

 

それでも、正当な理由があり、しかも勝ったなら何とか道はある。

問題は負けた時だ。

 

ヤクザに脅され続けている隣人を助けようとして喧嘩を売ったは良いが、反撃にあってボコボコにされた。

やむなく無条件降伏したが、金や土地は取られるし、逆に相手の正当性を押し付けられ、自分だけでなく、子供の教育にまで口を出された。

 

喧嘩の際殺された家族の前では、二度と過ちは犯しませんとめちゃくちゃな宣誓までさせられ、

あまりに悲惨な状況に気が狂い、最後は自分自身を否定し、改心し相手の正当性を認めることでしか自分のアイデンティティーを保つ術がなくなる。

 

喧嘩に負けるとはこういう事だ。

完膚なしまでやられ無条件降伏するとはこういう事を意味する。

 

戻る    続き

 

トップページへ