40代でフルコン空手を始めた主婦です。
(中略)
私は現在の道場の稽古、雰囲気は、とても気に入っていて、道場というか、スポーツクラブのように楽しく通っています。
高校3年の長男は、中学高校と長距離の選手で、日ごろから、栄養、筋トレ、練習方法など、現代科学に基づいた勉強をしています。
また、女の子よりも!、自分の体を鍛えることに興味があるらしく、弟の影響もあり、道場にも通っています。
(中略)
その長男が、常日頃言うには、
「空手の稽古は、非科学的なものが多い。前げりを300回くらいやったけど、途中から皆ダレていて、効果がないと思う。スクワット300回やったこともあるけど、号令が早いから、あれはスクワットでなくて、ただの屈伸運動だ。(100回くらいでほとんどの人が脱落する。)水分補給も、1時間に一回か、2時間無いときもある。」
私が、「そう言う稽古は、精神的に根性がつくのでは?」
と言うと、
「根性は、個人が生まれながらに持っているもので、非科学的な稽古でつくものではない、と現代科学ではわかっている。」
ま、そう言いながらも、生まれてから今まで、体力だけで生きているので、非科学的稽古を難なくクリアして、熱心に通っているのですが。
(殴ったり、蹴ったり、寝技もあるので、面白いらしい。)
(中略)
前置きが長くなってすみません。
息子達は自分の考えで行動できるので、問題はないのですが、
私の疑問は、「非科学的稽古で、精神力が養われるのか?」ということです。
これは、個人でどちらを信じるか?で決まるのでしょうか。
(後略)
精神論と非科学的な稽古は常にセットで語られる歴史的常套句です。
私自身も常に課題としていましたし、メールによる相談でも常にトップクラスのテーマです。
いろんなバリエーションがありますが、健全でかつ典型的な例として取り上げさせていただきました。
問題を一般化し、整理すると次のようになると思います。
まず、空手の伝統的な稽古方法が科学的か否かということですが、これは非科学的であることは明確です。
というか、武道に限らず全ての伝統的な継承された文化は、科学的であるはずがないのです。
科学と言う認識は近代のものであって、歴史的なシーケンス(順序)としてもありえません。
問題は科学的と証されるトレーニング方法が本当に正しいかです。
筋力トレーニングの専門雑誌を覗いてみてください。
毎月毎月、科学的トレーニングと称する新しい方法が湯水のごとく発表されています。
やれ、○○プロテインがどうだ、アイソメトリック、アイソトニック、成長ホルモン、画期的なサプリメントの数々。
いかがわしいものもありますが、それなりの科学的根拠がありそうなものも多いです。
指導者やトレーナーと称される人は、こうした科学的な知識が皆無という人はあまりいません。
ある時点で教育を受けたり、自分で調べたり、あるいは自らジムなどで経験したことを基に自分なりの合理性を持った理論をお持ちです。
問題はその知識を得た時代にあるのです。
その時代時代の流行によって根性主義になったり科学主義になったりします。
科学的という言葉は一種の流行言葉であって、問題は時代の先端(流行)をいっているという枕詞にすぎません。
現代は「科学的」と言う言葉が錦の御旗になっていますが、将来はわかりません。
もしかしたら「神の思し召し」という言葉が錦の御旗になる時代がくるかもしれません。
そこまで極論しなくても、科学的という言葉は実にあいまいです。
私はある主張が科学的という言葉によって修飾されている場合は、とりあえず疑うことにしています。
私が最も信頼している尺度は統計です。
言葉を飾る意味の統計ではなく、数学的に正しい統計です。
正しいサンプリングによって意味のある結果(有為差)が出るかどうか、またそこまで厳密ではなくともこうした統計的な配慮がなされた議論でなるかどうかで判断することにしています。
これとて完全ではないのですが。
科学的という言葉がいかに曖昧であるかの証拠はいくつもあります。
例えば、私が小中学生のころ、栄養論争で「米」対「パン」がありました。
圧倒的に「パン」派が優位でした。
栄養学的にも、経済学的にもパン食は理想的であり、栄養のかたよった「米」は罵倒されるばかりでした。
日本が戦争に負けたのは「パン」を食っている米兵が「米」を食っている日本兵より優秀だったからだ、なんて馬鹿なことを言っている学者もいました。
今は、欧米でも米を主体とする日本食が健康食として注目されるようになってきました。
次に「正座」極悪論です。
日本人は正座するから足の格好が悪くなった、とか血行を害して様々な悪影響がでるといった理論(?)です。
最近では、逆に正座の様々な効果が見直されています。
これらは、どちらの立場も常に科学的といった理論武装で語られているのです。
どちらが正しいのかは、本当の所は分かりません。
どちらの理論武装が自分の感性と一致するかでおそらく自分の意見として採用することになるのでしょう。
ある道場の稽古方法が非科学的だという非難は、おそらく根拠がありません。
その方法が非科学的であるか否かを統計的に検証するのは多大な時間とエネルギーを必要とします。
おそらく、そうした検証は誰も行っていないでしょう。
要するに、そこの稽古方法が自分の感性と合っていないというだけのことです。
自分の意見を正当化し普遍性を持たせるために「非科学的」という修飾語を付けただけなのです。
こうした言葉他にも一杯あります。
非科学的、非民主的、非合理的、非・・・・・・
頭に「非」が着く言葉はどうもこうした匂いがあります。
根性論も時代によるはやりすたりがあります。
そもそも根性という言葉が肯定的に使われだしたのは最近のことです。
もともと、根性という言葉は「根性の悪いガキだ」というように悪い意味でしか使わなかったのです。
似た言葉に「こだわり」という言葉があります。
こだわるという言葉は、執着性があり、しつこく、頑固で煮ても焼いても食えないやつのことを言う言葉でした。
それが、最近ではテレビなどでもこだわりの一品とか、ラーメンこだわりの味とか、絶賛の言葉に変化している。
そのうち、「当道場では、根性のすわったこだわりのお子さんに育てます」とかいうキャッチコピーが登場するかもしれません。
話がそれましたが、ここでは根性を「困難に立ち向かう精神力」という良い意味で考えることにしましょう。
では訓練で根性が鍛えられるのか。
これは断言できます。
鍛えられます。
肉体にせよ、精神にせよ、人間は困難にぶつかった時、生理的な限界に達する前に神経的な反射作用によるストップがかかります。一種の安全弁です。
つまり、人間は普段は自分の本来持っている力をフルには発揮していないのです。
これが、特殊な状況ではフルに発揮されることがあります。
「火事場の馬鹿力」などがそうです。
訓練とは、言い換えれば「平常心でも火事場の馬鹿力を発揮できるような神経回路」を作る作業なのです。
この神経回路は訓練によって作られることは既に証明されています。
根性を「困難に立ち向かう精神力」という意味でとらえるなら、根性は訓練で養成できるということです。
「しごき」には、科学的(!)な根拠があるのです。
問題はこうした訓練が正しい目的意識のもとで行われるか否かです。
質問者の息子さんの道場は、いわゆる科学的な指導ではないのでしょうが、もっと広い考えで見れば不合理の中の合理性とでもいう指導になっているのかもしれません。
「非科学的(!)な稽古を難なくクリアして、熱心に通って」いて、しかも楽しんでおられるわけですから、何も心配することはないと思います。
文句を言いながら、指導者に別の人間的な魅力を感じているのかもしれません。
要は本人が生き生きとし、自他ともに成長が感じられるのなら、それで十分ではないでしょうか。