科学的トレーニングは本来の意味は、実証的な科学(科学とは本来実証的なもの)的なデータと理論により、導き出された合理的なトレーニングの意味である。
対極としてあるのは、不確かな伝聞(実証の確認が取れていないと言う意味)と感情におし流された非科学的なトレーニングである。
科学的トレーニングはそれが本来の意味で実証的なデータにより注意深く行われるのであれば問題はない。
問題はないというより理想的なものである。
しかし現実には科学的トレーニングと称してはいるが、実態は非合理きわまりないものもある。
現在、非科学的なトレーニング方法と言われているいくつかのものも、少し前までは、科学的と信じられていたものも多い。
少し例を挙げてみよう。
運動中の給水。
我々が中、高校生の頃は、運動中の給水は絶対タブーであった。
マラソンなんかの後、水をがぶがぶ飲んでいると、決まって体育教師からどなられたものである。
現在は、運動中あるいは運動後の給水はむしろ必要なものとして推奨されている。
しかし、当時は厳禁とされていたのである。
昔の野球マンガで今でも覚えているシーンがある。
剛速球のピッチャーが優勝祝賀会でビールを頭からかけられる。
そのピッチャーは手近のタオルかザブトンか何かで肩を覆う。
かけられたビールで肩を冷やさないためだ。
その行為がマンガの中で絶賛されるのだ。
「肩を冷やすな」、この言葉はわりと最近まで平均的な野球のトレーナーが口にしていた言葉だ。
現在は、マリナーズの佐々木投手を例に出すまでもなく、多くのピッチャーは投球後にすぐ肩を冷やしている(アイシング)。
「うさぎ跳び」という運動がある。
ジャンプ力や足腰を鍛えるための基礎トレーニングとして、学校の体育でも多用されてきた運動である。
しかし、最近の体育理論を勉強した教師がいる学校では、殆ど行われることはなくなっている。
昔殆どの空手道場で行われていたアキレス腱伸ばしという運動がある。
空手道場だけでなく、学校の陸上部なんかの準備運動でもよくやっていた。
こうした反動を利用した運動は現代では怪我や故障の原因になるということで、控えられることが多い。
現空研でも、昔(拳誠会当時)は準備運動で反動をつけるものも結構多かったが、最近はストレッチを多用している。
こうした例は挙げればきりがないほど多い。
これからも、今まで科学的で正しいとされてきたトレーニング方法は次々と訂正されていくだろう。
訂正されていく過程は、従来盲目的に信じられてきた方法に対して、探究心旺盛な実践者や研究者が検証することから始まる。
検証とは、実験のことである。
例えば、運動後に筋肉を温めるのと冷やすのでは、どちらの方が疲労が回復しやすいのか。
こうした単純な命題でも複数のトレーナーが居ればたぶん意見は分かれる。
こうした命題に対しては、能書きをぶつけあって議論するよりも、実験した方が手っ取り早い。
サンプル数が多いほど正確な結果が出せるが、自分を実験台にするだけでも、少なくとも自分に関する真実はつかむことができる。
万人に対して効果的な方法ということであれば、統計的に正しい方法で実験しなければならない。
自分で実験する前に、正しい方法(手続き)による実験データや論文があればそれを参照することも大切だ。
実際には、運動に関しては、複数の要素が絡んで一定の結果を出す例が多いので、実験といっても、品質管理の実験計画法のような手法を使わなければなかなか効率的かつ正確な結果を得る事は難しい。
しかし運動生理学の論文などを見ると、統計処理に関しての考察が希薄なものが目につく。
論文などという大げさなものでなくても、最近テレビの健康に関する番組なんかでも見られる現象だ。
恐ろしく少ないサンプル数で「実証された」などと結論が出されてしまうと「ちょっと待てよ」と言いたくなることもある。
実証されたと称するトレーニング方法であっても、その実証が統計学的に正しい方法で実証されているかということを確認することが大切だ。
サンプルが極端に少ないなどという初歩的な欠陥が見える場合は、困ったことには違いないがそれだけで悪意かどうかはわからない。
問題は、怪しげな方法を科学的と偽装するために、あたかも意味のある統計のように装ったデータを添付されているケースだ。
一部健康食品の広告なんかでも散見される。
その他、はやりのテーマを、お題目に唱えて時流に乗ろうとする魂胆がみえみえのものも多い。
トレーニングとは直接の関係はないかもしれないが、例えば次のようなフレーズだ。
「地球にやさしい」
「エコ」
「マイナスイオン」
「いやし」
二酸化炭素やダイオキシンも発生させない、地球にやさしい究極の巻きわらとダンベルセット、部屋に飾るだけでマイナスイオンの発生があなたを究極のいやしの世界へ導いてくれるかも。(???)
私は科学的トレーニングの否定論者ではない。
むしろ積極的な推進論者である。
ただ、善意、悪意を問わず科学的と称して、実態はマ反対のことを主張したり、論じているもの、あるいは実証の確認のないまま盲目的な迎合を行っているものに警鐘を鳴らしたいと思うのである。
一方、非科学的なトレーニングと称されるもの、これは概ね伝統的な武道では、昔からの慣習として行われている鍛錬方法が標的にされることが多いが、こうしたものは、科学的と称するサイドから批判をあびることが多い。
あらゆる伝統的な武道の鍛錬方法は、現在の最新トレーニングの観点から見れば欠点だらけであろう。
それらの批判は明らかに間違っているものも目にするが、概ね当たっているような気がする。
「気がする」というのは、私にとって合理的な説得力があるということで、それが真実かどうかは、統計的な手法での実証を待たねばならないからである。
空手の稽古で言えば、例えば大勢で、一斉に正拳突きの動作を号令に合わせて行う。
この単純な動作を初心者も熟練者も毎回、毎回何年も続けるのだ。
この動作が運動生理学的にどの程度の意味を持っているのか、少なくとも私は知らない。
ではこうしたトレーニングは無意味なのか。
私はそうは思わない。
こうした昔からの伝統的な稽古方法は、何と言っても磐石の実績が歴史として存在する。
多くの名人、達人を輩出きた事実が厳然としてそこに存在する。
彼らの伝記や自伝を読むと、独自の工夫は見られるもののその多くが伝統的な稽古が基礎となっていることが良く分かる。
大勢で、一斉に正拳突きの動作を号令に合わせて行うという稽古の意味は、純粋な肉体的なトレーニングという以外に例えば次のような効果があるのかもしれない。
大勢で行うことにより、やる気のないときでも、強制的に一定量のトレーニングをこなすことができる。
常に、他人を見たり、逆に見られることにより、フォームなどの確認ができ、まちがった自己流やクセを修正できる。
一斉に同じ動作をすることで、競争心が芽生え、モチベーションの維持に役立つ。
大勢で号令をかけて同じ動作を行うことで仲間としての一体感が生まれ、これもモチベーションの維持に役立つ。
一人では退屈でとても長続きしない単純動作をこうした半強制的な環境に身を置くことによりやりおおせることが可能になる。
人間は弱い動物である。
特にある意思を長期にわたり継続させるというのは大抵の人は苦手である。
どんなに、合理的科学的トレーニングであっても、それがあまりに面白くなく、辛いものであれば、これをその目的のみて゛継続するのは困難である。
運動生理学的にはベストではなくても、生理学的に間違ってさえいなければ、継続しやすい、モチベーションを維持しやすいといった条件は、一個人にとって、生活全てを包含したレベルで考えればベストということになる。
私はつたない自分の経験や多くの優れた先輩や後輩を見るにつけ最終的には「継続したものが最強である」という結論に達した。
これは信念というより、目の前に突きつけられた事実というのが近い。
ベストは「最善の方法でかつこれを継続させる」ということであるが、継続できなければどんなベストの方法も画餅にすぎないわけだから、どちらが大事かということになれば継続の方という事になるのである。
継続させる、モチベーションを維持させるということを目的とすれば、微視的(ミクロ)にみれば非科学的、不合理なトレーニングでも、大局的(マクロ)な観点からは科学的、合理的なトレーニングということも言えるのである。
真の意味で科学的なトレーニング方法は、その目的によっても異なってくる。
武道を一生続けるものと考え、仕事を持った社会人が限られた時間のなかで効率的に継続できる方法ということで現空研は理念を掲げている。
最後に9項目をまとめてある。興味のある方はぜひそれを参照されたい。