ヒット カウンタ

講義 7月02日

人はこれからコンピュータとどういう風に関わっていくべきか

評価の手法


麗澤大学の空手道部と私の主催する現代空手道研究会との合同稽古が先日行われました。
伝統系の空手とフルコンタクト空手という前代未聞の合同稽古ですが、素晴らしい成果をあげることが出来ました。

人は初めての体験でどのような行動をとるかということは、未知の分野にこれから挑戦するとき、共通の注意点として浮き上がってくるものです。

それは空手であろうとコンピュータであろうとそういった視点では共通のことです。
世界の子供達の喧嘩の様式を見てみる大変興味深い現象があります。

といっても私が全ての国を調査したわけではないのですが、たまたま何かの報道番組かニュースのシーンでタイの子供の喧嘩のシーンがちょっと流れたことがあります。

そこで繰り広げられていたのはまぎれもないタイ式ボクシングだったのです。
日本では、昔から「取っ組み合い」と言われるように、子供の喧嘩も相撲がお手本になっていました。
最近はいろんな格闘技が入ってきていますので、入り乱れていますが、私の子供の頃はプロレスの力道山が英雄だったので子供は皆ミニ力道山になって空手チョップを連発していました。

最近ではK1やPrideの影響もでているかもしれません。
人は、何でもありの自由選択の場でも結局は無意識にお手本を探していることがわかります。

私は、大学に入るのに3年も浪人し、しかも卒業までに2年も留年しています。
まったく出来そこないもいいところです。
しかし、それでも、一旦方向が決まると猛勉強しました。

私が弱小ながら会社を設立し社長になったのは29歳の時です。
従業員を募集し、今までいつも面接されるばかりだったのが、いきなり面接する側に変わりました。

今日まで累計でどれくらいの人達を面接したのか数え切れません。
採用する側で多くの人と接すると、面接される側の人の共通の行動パターンが見えてきます。

それは、市販されている面接対策本や回りの人から得た情報などで皆理論武装しているからかもしれません。
ありきたりの質問に対する回答は皆判で押したように共通です。

質問する方もまた同じようなことを繰り返します。
聞く方も同じセンテンスの繰り返しならば答える方も同じセンテンスの繰り返しです。

これが良いとか悪いではなく、人々はお手本を探し、それに従うことで安心感をえるのです。

自由に何を喋っても良い、とか自由に好きなように行動して、と言われると人は戸惑います。
制限がある程度ある方が人は生き生きと行動できるのです。

これは単に心理的な要素だけではありません。
ある程度制限された方が、効率が良かったり、結果的に自由奔放に行動できたりします。

武道でも、「なんでもあり」という競技形態が決して最強の人間を創出してはいません。

水泳でも自由形において近い将来あの不自然なバタフライがクロールを抜くかもしれないと言われています。

このように制限された技術が自由を抜くことがあるのです。

走り高跳びの背面跳びも面白い現象です。
今でこそポピュラーですが、私の子供の頃は存在しない飛び方です。

人類50万年で背面跳びの歴史の浅さを思うと気が遠くなりそうです。
最も単純な競技に属する高飛びの合理的な飛び方を数十年前まで人類は知らなかったのです。

制限なくして自由にやらせる事が決して最高のものになるということではないという証です。
ある種の制限が人を進歩させることがあるという事です。

形式、様式、伝統といわれるものもそういう意味では制限の一種です。
我々はこうした制限を短期的には向上を妨げる要素としてとらえがちですが、長期的視点に立てばより深いところで合理的なのかもしれません。

人はコンピュータを単なる計算機から、ある種の判断を伴う処理に利用するようになってきました。
人は何かを判断する場合、かならず心にお手本になる判断基準を持っています。
そのお手本との乖離あるいは類似によって、その何かを判断するのです。

これを評価といいます。
評価とはあるお手本との類似性を何らかの形で数値やある種の形容詞に変えることです。

この評価の方法をより一般化してコンピュータにやらせようという目論見は昔から盛んです。
しかし評価の一般化という事はそんなに簡単なことではありません。

コンピュータによる相性診断なんかは昔からありますが、正直言ってろくなものはありません。
これらの原理は、多くは有限の評価要素の加重平均という手法を取っています。

早い話が、大学の入学試験です。
入学試験は言ってみれば大学と個人の相性診断のようなものです。
理科系の大学であれば、数学や理科のテストの点数を重視します。

手法としては、数学や理科のテストの結果に1以上の係数をかけて、反対に文科系の学科のテストの点数に1以下の係数をかけて、総合計あるいは平均点をとって評価するといったやりかたです。

こうした科目によって係数(重みといいます)をかけてとる平均のことを加重平均といいます。
この手法が現在コンピュータで行われている評価方式の主流をしめています。

これでは学科はダメだけれど天才的な画家を見出すなんて事はできませんよね。
あのアインシュタインでさえも学校の成績はぜんぜんダメだったそうです。

これとは違った視点での評価方法があります。
それは微分評価と積分評価です。

この用語は私が勝手に作った言い方です。
微分とは変化率のことで、積分は面積です。

微分値が高いとは変化率が大きいことを示します。
積分値が高いとは面積あるいは累計値が大きいことを示します。

人物評価で言えば微分評価はやる気や向上心、現時点での努力といったものを指します。

積分評価は、実績です。
過去の実績、及びその累計です。

会社で言えばキャッシュフロー(現金)が多い会社と資産(土地や建物)が多い会社がそうです。
どっちが微分型でどっちが積分型かわかりますね。

これは、お婿さんやお嫁さんを評価する場合でもあてはまります。
要するに将来性に賭けるか実績を取るかということです。

会計の概念で言えば微分評価は時価会計、積分評価は取得原価主義に該当します。

悪人が「悪うございました明日から心を入れ替えて真人間になります」という言葉を信じて許してやるという評価は変化率を見ていますから微分評価です。

一方「やった事は償ってもらわにゃならん市中引き回しの上遠島じゃ」というのは積分評価です。

どちらが良いとか悪いといった問題ではありません。
評価の基本的な考え方の違いを言っています。

しかし、人間はあるとき何かをきっかけにして生まれ変わったように努力したり、がんばったりするものです。
微分評価には夢とロマンがありますね。

それと講義の最後にレンマとジレンマのお話をしましたが、覚えていますか。

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前期試験のヒント

評価の手法を自分の考えでまとめておきましょう

例題

なし

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