人間は50万年の歴史で、ここまで進化してきたが、道具の発明は、高々数万年から数千年前からである。
しかも、その道具は、全て人間の筋肉の働きを増大するためのものであった。
皆さんの専門である芸術(アート)も 英語のartsにはもっと広い意味がある。
技術もartsに含まれている。
私は現在空手の道場を主催しているが空手もそういう意味ではartsである。
戦うための力をある種の技術で増大させるという意味では技術としてとらえる事ができるからだ。
空手とよく似たアメリカの武道にmartial arts
というものがある。
直訳すれば軍隊の芸術ということになる。
人間進歩の歴史の大部分は筋力あるいはその延長で考えられる道具の進歩であった。
しかし人間の知恵すなわち頭脳の力を増大させる道であるコンピュータは発明されてから僅か数十年しかたっていない。
我々は、長い人類の歴史の中でこうした極めて特殊な時期を生きているのである。
この頭脳を増大させる道具であるコンピュータは物凄い勢いで我々の生活自体を現在進行形で猛烈に変化させ続けている。
そして今後の我々の生活、それも精神的な面での影響力は将来どれほどのものになるか想像もできない。
例えば、ロボットの存在を考えてみよう。
我々は完全に人工で作られたロボットにどれほどの感情移入をするのであろうか。
冷静に考えれば、ロボットは全て誰かが人工的に作ったものであり、その言動や表情は全て誰かがプログラミングしたものである。
本当に感情を持っているはずもないのである。
しかし、ソニーが開発し販売しているアイボというロボット犬は大変な人気で、これを我が子のような感情移入している多くの人々が現実に存在する。
一方我々は最近の映画でCG等によって作られたシーンに対しては感心すると同時にかなり冷かな感情も持っている。
ある映画の凄いシーンがあってもそれがリアルな映像なのかCGなのかで価値判断が全然違ってくるのだ。
なんだCGか、といった言葉が普通に出てくる。
映画、マトリックスやタイタニックトロイといった映画もこうした視点が常に評価に関わってくる。
それでも、作り物だと分かっていても人間がこうした仮想現実に感情移入するのは、その人間の知性や知識に関わらず一定の傾向として認めざるをえない現実が存在する。
もう30年以上前の話になるが、マサチューセッツ工科大学でコンピュータを研究するジョセフ・ワイゼンバウム博士が作った、人工知能プログラム「イライザ」の例がその事実を如実に物語っている。
このプログラムはコンピュータ上に仮想の精神医学者を作ったものである。
患者(対話者)はキーボードの前に座ってこのイライザと会話をすることができる。
イライザという名はオードリーヘップバーン主演の有名な映画マイフェアレディーからの援用であろう。
ロンドンの下町で凄い田舎訛りの花売り娘イライザを言語学の権威であるヒギンズ教授が徹底的な教育を施して貴婦人に育て上げるというお話である。
会話を学習して成長していくというプロセスに着目してこの学習型人工知能プログラムに命名するところが、いかにもアメリカっぽい機知を感ずるところである。
このイライザというプログラムは大変よくできており、あたかも現実の人間(医者)と話しているように会話を続けることができるのだ。
このプログラムは当時、特にコンピュータの専門家以外の多くの学者や知識人から注目、評価され、大きなブームになるのである。
当のワイゼンバウムは博士はこの流れにある種の危機感を感じ、様々な警告を発するのであるがもはやイライザは開発者の手を離れて独り立ちしたがごとく、回りに様々な影響を与えていくのである。
この実際にあった興味深い出来事は今後の人間とコンピュータとの関係を考える上で大きなヒントと警告を我々に発しているのではないかと私も思う。
特にAI(人工知能)が将来一般社会にどのように入っていき、どのような影響力を人々にあたえるのかということは、核問題のような直接的な脅威とはまた違った意味での人類の存亡にもかかわる大きな問題だと思うのからだ。
ワイゼンバウム博士の著書「コンピュータパワー」の中で一番興味深くまたショッキングなシーンは彼の優秀な女性秘書(当然プログラムに関する高度な知識をもっている)が、博士の目を盗んでこの「イライザ」と真剣な会話をしているくだりである。
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人間とコンピュータのかかわりについてどういう問題点があり、将来何が問題になるであろうかということを自分の考えとして整理しておくこと。
現在の社会現象でコンピュータの出現が直接的、あるいは間接的に原因となっていると思われるものを一つあげ、それに対して自分の意見を述べよ。