トルストイの書いた童話に、次のような話がある。
一人の男が一生懸命に働き何がしかの金を得た。
男は自分のため家族のため土地を買おうと思って地主の所に行く。
地主は、朝日が昇ったときから日没までの間、歩いた土地が君の物だと言った。
しかし、日没までに戻らなければ、土地は君のものではない。
男は、夜明けと共に必死に歩き出す。
歩けば歩くほど土地はすばらしさを増し、男はなかなか引き返すことが出来ない。
お昼をとっくに過ぎ、そろそろ戻らなければ間に合わないかもしれないのだが、土地はますます豊かなものになっていき、男は引き返す決断がなかなかできない。
しかし、いよいよ日が傾いてきて男は事態の重大さに気が付く。
男は大急ぎで帰路につく。
これで日没までに戻れば、大変な大地主に成れる。
男は疲れた体にむち打って大急ぎで戻ろうとする。
村では地主をはじめ皆が総出で男の快挙を待っていた。
やがて男の姿が見えるが、日は殆ど沈みかけている。
「いそげ!いそげ!」皆も一斉に声援をかける。
息も絶え絶えの男が地主の元に着いたのと日が落ちたのはほぼ同時だった。
地主は言う。
「君は大変な土地を手に入れた、おめでとう」
しかし、男はその場で息を引き取ってしまう。
村人は哀れな男のために墓を作る。
男が命を賭けて手に入れ物は自分が埋葬された僅かの土地だけだった。
この話には多くの教訓が含まれる。
一言で言えば欲張りは結局損をするということなのだが、話はそんなに単純なものではない。
この話のポイントは、歩いてみて土地の状態が刻々変化するところにある。
歩けば歩くほど、つまり帰るのが大変なところ程土地の程度が良くなるところがミソだ。
もし、均一の土地であれば、予め想定した歩く速度で日没までに得られる最大面積を計画的に獲得するのはそんなに難しい事ではない。
しかし、この話では、歩けば歩くほど魅力的な土地になっていくのである。
戻れないかもしれないというリスクの増大とともに、良い土地というリターンの大きさが増えてくる。
しかも、それが事前には知らされていない。
この話を私が読んだ時は子供心にもインパクトが強く未だに細かく覚えているくらいだ。
読んでいるときは男に同化していて、そんなに欲張らなくても良いじゃないか、とか急げ急げといった感想を持った事を覚えている。
トルストイ自身は農奴解放論者であり、地主解体の思想が強かったのだが、この話は、そうした共産主義的な側面とともに、上手くやれば(欲望を程々のところでコントロール)大金持ちになれるという資本主義的なハウツーにもなっているところが面白い。
せっかくお金をためたのなら、こんなギャンブルをしないで、身の丈にあった生活をしていけば家族皆でそこそこの幸せな一生を送れたのだ、というメッセージにもとれるし、
きちんとしたリスク管理をして、程良いところで切り上げていれば、かなりの資産家に成れたのにというメッセージにもとれる。
おそらくトルストイ自身は前者のメッセージとして子供向けにこの話を書いたと思うのだが、殆どの大人は、後者の受け取り方をするのではないだろうか。
ビジネスにおいても何らかのプロジェクトはそれを完結させなければ意味はない。
完結させるとは、どこかでまとめる事であり、日没までに終了させることである。
しかし、手を広げることは簡単であるが、完結させることは想像以上に難しい。
例えば株を始めてやった人は、自分が買った株が上がり続ければ、もっともっと上がるのではないかと思い、なかなか売る(利益を確定する)ことができない。
今日売れば確実に儲かることが分かっていても、明日まで待てばもっと儲かるのではないかと期待してしまう。
そして、毎日架空(机上)の利益を計算して悦にいっている。
永遠に上がり続ける株なんてない。
やがて、どこかで反落の流れになる。
しかし、いったん高値を覚えると安くなった時点ではなかなか売れない。
今、売れば、最高ではないけれどまだ幾らか利益がでるのに、なかなか決断できない。
そうこうしているうちに買値を下回り結果的には大損してしまう人が多い。
株の世界は、大勝を狙わなければ他のギャンブルに比べればはるかに儲けやすい。
しかし、多くの人はこの「もう少し」の欲望に負けて結果的に大損することが多い。
私ならこんなドジはしないと思う人もいるだろう。
株に関しては、ゲーム感覚でシミュレーションできるサイトもあり、そこでのランキングなどもある。
もちろん取引は架空であるので一銭もかからない。(もちろん儲けも実際にはない)
これで簡単に儲けることができるので、実際にやってみると大損したという人は多い。
なぜなのか。
人は実際にお金がかかると「欲」という魔物に取り付かれるのだ。
この魔物に取り付かれると人は正常な判断ができなくなる。
この欲という魔物はお金だけではない。
名誉とか生き様といった無形のものも関わってくる。
歴史上の有能な人物が大きな戦争や対外的な交渉や会議で大きなミスをしている。
おそらく彼らも、コンピュータゲームでの戦争や交渉ではもっとましな判断ができたであろう。
しかし、実際に国益を背負い、そこに名誉や生き様といった「欲」もからんでくると判断が難しくなってくるのだ。
トルストイ童話の男の話でも、もしこの男が独り者であり、一匹狼であれば結果は違ったかもしれない。
この男には家族がいた。
男は家族の幸せを考えていた。
政治家はまともであればあるほど、国民のことや自分の生き様のことを考える。
経営者であれば従業員の事を考える。
こうした他者のことを考えるということも広い意味では「欲」なのである。
現在、ある公的団体の談合問題がマスコミで取りざたされている。
談合そのものを良しとは主張しないが、首謀者とされ逮捕された人は、強盗や物取り、あるいはハレンチ犯などとはまったく異なる。
恐らくは、自分を含んだ会社、団体、組織の権益を守るためにでた行動であろう。
これも「欲」である。
個人の小さな「欲」からこのような大きな「欲」まで、この欲というものが人間の判断を狂わせる。
では、こうした欲を全て捨て去れば全ては解決するのか。
そうではないだろう。
欲を捨てるということはまず普通の人にはできない。
また仮にできたとしても、こんな人は本当にすばらしいのだろうか。
全ての利益や権利、物質、お金、名誉、賞賛、これらに何の執着もない人というのは本当に魅力的だろうか。
本心から全く欲を欠いた人は人からプレゼントを貰っても、宝くじに当たっても、オリンピックで金メダルを取っても、ノーベル賞を貰っても何の感動もないはずである。
こんな人、友人にしたいだろうか。
私はごめんである。
人は欲を持っているからこそ向上心を持てるのであり、努力し仕事もする。
いろんなスキルを身につけてより豊かな人生を送ろうとする。
また他人の欲も理解できる。
欲があるから、強くなりたいと思うし、賢くなりたいと思う。
欲があるから恋愛もし喧嘩もする。
欲こそ人生を彩る源だと思う。
問題は、この欲をいかにコントロールし、自分や自分を含んだ家族、隣人、組織、会社、社会、国家、全ての権益をバランス良く獲得し配分していくかだ。
権益の全てがゼロサムゲームというわけではないということをまず理解しなければならない。
誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立っている、というゼロサムゲームの理論を無批判に信じている者がいる。
トンでもない間違いだ。
トルストイ童話の例で言えば、恐らくこの村は土地は広大でむしろ労働力が不足していたのであろう。
その証拠に、最後は村人全てが応援しているし、地主もこの男を祝福している。
この男が死にさえしなければ全てがハッピーだったのだ。
株の世界だって、決してゼロサムゲームではない。
短期でみれば近似的にゼロサムと考えられるが、長い目でみると社会が成長すれば各社の成長によりトータルとしての時価総額が増える。
株式を持っている全員がハッピーになれるのである。
皆が幸せになれる道があるという根本原理をまず理解することが大切である。
他人を犠牲にしないで、自分の欲を実現させる事、これはすばらしい人生だと思う。
皆さんはこのトルストイ童話で、この男のことをどう感じますか。