また、やられた。
炊事場ばかりをねらうこいつの実体を見たものはまだいない。
これだけ大勢の人間が住んでいるアパートの共同炊事場の一瞬のスキを狙って荒らすにはよほどの動物的勘のあるやつか動物に違いない。
何日も交代で見張ったりしたが捉えるどころか影すら見た者はいない。
ほとんどあきらていたある大雨の深夜、屋台でかなり飲んでアパートにもどったとき。
この異様な気配は何だ。何か動物的なにおいを感じる。
いた。やつだ。やっぱりと思った。想像していたとおり猫なのだ。
猫を甘くみてはいけない。こいつはこの一帯をとりしきる野良猫の連中のボスの中のボス。大親分のどら猫なのだ。
やつがいかにすごいかはこの後すぐ分かった。
この猫は私の姿を見ると、なんと、じりじりと私に近づいてくるのだ。あの猫が怒ったとき特有の毛を逆立てた姿で。こんな猫が世の中にいるのか。
正直、一瞬背筋に寒気のようなものを感じたことを告白しないわけにはいかない。
薄暗いアパートの廊下で彼我の距離は約5メートル。
やつは本家猫足の構え。
すかさず、猫足の構えをとる私。(注
空手経験者のかたにとっては常識ですが、一般の方のために解説。猫足の構えは、剛柔流空手の最も一般的な構えであって、猫と対決するときに、特にとる構えではありません)
フリーズした一瞬、ヒクソングレーシーのタックルを思わせる電光石火の中段への攻撃。やつは拳を持っていないので顔が飛んでくる。
キェー!!
裂ぱくの気合とともに放った必殺の回し蹴り。
今思うと紙一重の勝負だった。
奇跡的に蹴りが当たったのだ。
ふぁ〜 と空中を舞い、向こう側の壁に当たる親分。
終わった。勝った。
親分はさきほどとはうってかわった穏やかな目。
「おまえなかなかやるじゃないか」とでも言うようにゆったりとこちらに歩いてくる。
そのあまりの堂々とした態度に道をあける私。
彼はしずかに階段をおりながら2どふりかえる。
黙って見送る私。
その後このアパートは二度と荒らされることはなくなりました。
隣のアパートはその後もずっとやられていたようです。
大学入学直後の事件でした。