ヒット カウンタ

強くなると見えてくるものがある


弱者の立場に立って考えることができる能力はあらゆる分野のリーダーに必要不可欠な能力である。
一度でも大病をわずらったり、大きな事故や天災に見舞われたり、身内の不幸を体験すれば、いやというほど自分の無力さ、弱さというものを実感する。

こうした、弱者の立場を体験した者は自分以外の弱者の境遇や心情を共有することができる。
失業や失恋、入試や各種試験の失敗なども、これを経験した者は同じ状況の他人の痛みを知ることができる。

人生で一度も失敗したことがない人間は、弱者というものを頭では理解できても、実感としてはピンとこないものがある。
私も若い頃は、体も丈夫で勉強もわりとできた方なのでどちらかというと自信過剰の傾向があり、弱者に対する配慮に欠けるところがあった。

というか、弱者にあまり関心がなかったというほうが正確かもしれない。
関心は自分と同等かそれ以上の者(ライバル)に向かい、競争心が心の大部分を占めていたと思う。

人生で最初の挫折は始めて大学入試で失敗したことであろう。
自分の人生で失敗ということは一生ないであろう、と敢然と考えていたことが目の前で崩壊した。

今、考えるととんでもない思い上がりもいいところだが、当時は根拠もなく自信に溢れていたのである。
自信過剰の者が一旦大きな失敗をすると、今度は過大な落ち込みに陥る。

しかし、それも何とか克服することができた。
この克服に空手が大きな役割をはたしたのは言うまでもない。

このあたりの話は別のコーナーでいろいろな観点から述べているのでここではこれ以上は掘り下げない。
今回のテーマはこの「弱者の立場」ではなく逆の「強者の立場」である。

私は大学時代、教育実習だったと思うが、ある工業高校の教壇に立ったことがある。
これが生まれて初めて先生の立場になった瞬間である。

教室の中の図式は、

強者=先生
弱者=生徒


である。(最近の世相では必ずしもそうではないようであるが)

つまり、私は大学まで常に教室の中では弱者であったのである。
だから弱者の心情はよくわかる。

弱者の共通項

    言い訳をする(遅刻や忘れ物にたいし)
    こっそりいたずらをする
    怠ける
    こっそり飯を食ったりする
    こっそり教科書以外の本を読んだりする
    カンニングする
    問題が解らないとき当てられないように教師と目をあわさない
    隣のやつと私語をする

まあ、他にもいっぱいあるが、大体こんなところが全国共通標準的弱者であろう。
勿論、弱者はのんべんだらりと弱者であるわけではない。

弱者は弱者なりの自己防衛本能を持っており、強者対策は怠りない。
上記の共通項であるが、こういった行動は勿論隠密裏に行う。

というか、本人(達)は完全犯罪のつもりなのだ。
まあ、小、中、高校とそれなりの年季も入った弱者であれば、弱者としてのノウハウもそれなりのものを持っている。

と本人は自信がある。
それが、この教育実習で根底からガラガラと崩れた。

教壇の上から見た教室とはこういうものだったのか。
私は人生観が180度展開したような驚愕を覚えた。

漫画を見ているやつ、飯を食ってるやつ、ノートにいたづら描きをやっているやつ。
皆、手に取るように見える。

本人たちは、もちろんこっそりやっているつもりだ。
なにも、この高校だけが特殊であるわけではない。

工業高校としては名の通った学校だ。
生徒の質も高い。

つまり、この光景は程度の差こそあれ、おそらく一般的な日本中の学校で見られる光景なのだ。
私が驚いたのはこうした生徒達の行動ではない。

こんな行動は私自身が生徒のとき毎日のようにやっていたことだ。
全然驚かない。

驚いたのは、これほど、教壇の上の先生からは丸見えだったという事実だ。
つまり、こっそり教室に入ってきたり、こっそり悪戯をしたり、宿題をやってきてないので目立たなくしていたり、・・・・・・

こんなけなげな努力は全て無駄だったのだ。
弱者は弱者同士の結束はけっこう固い。

弱者同士の情報の交換もある。
しかし、決定的に欠けているのが強者からの視点だ。

弱者は強者になったことがなく、強者から自分達がどのように映っているのかは考えたこともない。
やがて、私のように何かのきっかけでこういう強者(先生)の立場に立つことがあって初めてその実態を自覚することができるのであるが、自覚しないままの者も多い。

私は学生時代(弱者)にこういった強者の立場に立つことができたのはある意味幸運だった。
と、この話はここでは終わらない。

つまり、弱者は強者から見るとすべて丸見えなのだからジタバタしても恥の上塗りになるだけだよ、といった短絡的な結論ではないのだ。
生徒たちの行動なんて大昔から古今東西を問わず大体こんなもんで、これからも未来永劫続くと思う。

これで良いとは言わないが、解決しなければならない別な大きな問題は山ほどある。
私は初めて、にわか強者になってみて、実は強者というものは決して万能の強者ではないということを思い知らされた。

例えば、「遅刻の言い訳」を聞かされる立場を考えて欲しい。
遅刻の言い訳は大体決まっている。

ダントツなのは「電車(バス)が遅れました。」
だ。

自分としては朝早く出たのだが、こうした不可抗力の事態でこういう遺憾な結果になってしまった、というわけだ。
「こんな言い訳、俺も何百回と使って実態はわかっているのだよ。」

遅刻の理由の99%は朝寝坊だ。
修猷館の42年度卒業生のうち遅刻回数全校No2の私が言うのだから間違いない。
(ちなみにNo1はラグビー部のホシノ)

こういう言い訳を聞かされる者の立場を考えたことがあるか。
交通取締りのおまわりさんなんかも似たような立場だろう。

交通違反のキップをきるとき、素直に応じる者は少ないはずだ。

「信号無視ですよ」
「いや、途中で黄色になったので急いで渡ったんだ」

たぶん、私でもこの程度のことは言うと思う。

問答無用が通用したのは過去の話。
現在は、こうした問題は常に話し合わなくてはならない。

「お前の顔に毎回寝坊しているって書いてあるぞ」と言うわけにはいかないのだ。
教師の見えない(と思っている)ところでコソコソやる悪戯をどんなに把握していても、じゃどうすれば良いのか、と考えると結構難しいものがある。

強硬姿勢が良いのか懐柔策が良いのか、経験がないとこれも解らない。
弱者がこのようににわか強者になった場合、こういった問題には殆どお手上げ状態になる。

私はまさにそうだった。
弱者から見ると強者は万能に見える。

したがって隠れてコソコソしたがる。
しかし、強者からは弱者は丸見えだ。

丸見えではあるが、適切な対処方法は知らない。
強者のうち過激なものは体罰主義や規則万能主義になっていく。

無気力な者は見て見ぬふり、放任主義に陥っていく。
こうなる理由は単純だ。

我々は弱者の立場は経験豊富だし、いろんな対処方法やノウハウも持っている。
また、教育や社会制度も弱者の立場は常に強調され、少なくとも表向きは制度として形がある。

ありとあらゆる童話や教育書は「強きをくじき、弱きを助ける」といった基本コンセプトで作られている。
つまり、弱者に関しては、それが実行されているかどうかは別にしても制度や情報は豊富にある。

一方強者に対しては、もともと強い者には補助なんて必要ない、といった観点から、強者の心構えとか、強者救済の方法なんて殆ど目にすることがない。

昔のヨーロッパには貴族のための学校があり「帝王学」なんていう学問もあったようであるし、日本も昔は武士道といって、ある意味強者のための生活規範があった。

しかし、現在は強者はどうもイメージが悪いのか、強者の存在を容認するすることが前提のこの手の考えは現在社会からはタブーに近い扱いを受けているように感ずる。

私も強者の立場に立ったらどういうふうにふるまえば良いかといった教育を受けた記憶はない。
したがって、初めての教育実習での戸惑いといった結果を生んだのであろう。

空手で強くなることも同じような戸惑いを生むことがある。
腕力がなければ弱者として許されることが、なまじ腕力があるがため容認されない事もある。

私が学生のころ、空手衣(黒帯)を持ってて電車に乗ったことがある。(昔は柔道衣や空手衣は裸のまま帯を巻いて肩からぶら下げるというのが学生の一般的なスタイルだった)
たまたま、その電車に3人の酔っ払ったチンピラ風の若者が乗ってきた。

そのチンピラどもは電車の中の若い女性に片っ端からちょっかいを出しながらこちらに歩いてきた。
その行動はかなり傍若無人であり目に余るものがあった。

私もどうしたものか考えていたところ、ふっと電車の中の異様な雰囲気を感じて周りを見回した。
何と、乗客の殆どが私を見ている。

私と私の空手衣を見ている。
私は一瞬事態を理解した。

チンピラが狼藉の限りを尽くしながら向こうの車両からこちら向かって来る。
一方ここには空手の有段者がいる。

乗客の多くが何らかの期待を私にしていることは痛いほど伝わってきた。
もし、私が空手衣なんて持っていなかったらこういう視線の集中を浴びることはなかったであろう。

この場で、私は否応なく強者の立場に祭り上げられていた。
ここで私のとった実際の態度と行動を述べることは今回は差し控えておこう。

今回私が言いたいのは、強者(あるいは強者の立場に立たされた者)の側の生き方や行動の規範、倫理や正義も含めての指針といったものがあまりにも現在の日本には欠けているということである。

私は、正直このとき戸惑った。
自分に暴力が向けられた場合は正当防衛というりっぱな規範が存在する。

しかし、このように自分以外に暴力が向けられ、しかもそれは不快ではあるが実質的にどの程度害を与えているかわからない。
もしかしたら大変な事が起こるかもしれないし起こらないかもしれない。

自分には無関係と言ってしまえばそれでおしまいだ。
しかし、心情的には何とかしてやりたいし、周りもそれを期待している。

そしてその力が自分にあるかもしれない。
やはり、私はこのときも初めて教壇に立ったときと同じ驚きと戸惑いを感じたのである。

この戸惑いに現在の日本に欠けている何かがある。
この戸惑い、強者になると見えてくるもの。

これをもう少し追求していきたい。

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