ヒット カウンタ

いきなり 助けて!!

 いきなり若い女性がホテルのロビーに飛び込んできた。
先週の日曜日夜
10時過ぎの話である。

「暴漢に襲われています。警察呼んでください。助けて」
と叫んでいる。

私は、現空研の師範である
Mとコーヒーを飲んでいた。
彼の娘さん(まだ大学生である)の結婚式に招待され式が終わって悲しい花嫁の父親をなぐさめながら久しぶりの昔話を楽しんでいた時のことである。

一面ガラス張りのカフェからは外が良く見える。
その女性を追って若い男二人が追いかけてくる。

女性の恐怖に引きつった声がロビーにこだました。
しかし、誰も彼女に近寄らない。

客もホテルの従業員もむしろ逃げ腰だ。
最近の血生ぐさい事件が続く中むりからぬことではあろうか。

先週道場で暴漢に襲われた場合や相手が武器を持っている場合の心得について話したばかりのところだ。
現在の日本では、「助けて」と叫ぶとかえって誰もが逃げ腰になって誰も助けてくれない、「火事だ」と叫ぶのが良いらしいという話を紹介したばかりだったが、まさにその現実を目の前で体験した。

本当に皆無関心あるいは無関心のふりをしている。
ホテルの従業員までもだ。

君らの職域ではないのか、暴漢に立ち向かえとは言わないが、女性を保護し、警察に迅速に電話するとか、もっとテキパキとした対応ができないのか。
結局立ち上がったのは我々二人だけだった。

Mと私は学生時代からの付き合いであるが、2人でいるとどうしたわけかこういう場面に出くわすことが多い。私が記憶しているだけでも3回くらいはある。
松戸でバイクに乗った若い者同士の喧嘩を仲裁した時も
Mといっしょだった。

話は戻るが、手短に女性の話しを聞くと、いきなり殴る、蹴るの暴行を受けここまで逃げてきた、という。
Mはホテルの従業員にすぐ110番に連絡しろと指示。

そして詳しい話を聞く間もなくすぐ間近に迫ってくる男たちと対面した。
Mは昔から人情に厚く、正義感の強い男だった。

刃物を持っているかな、私は彼を追いながらいやな予感がよぎった。
さっき、女性の言葉のなかに、喧嘩とか刃物という単語が混じっていたような気がしたからである。

しかし、緊張はここまでだった。
じつはこの話は、これから先はぜんぜんドラマチックにはならない。

というか結末を我々は知らない。

とりあえず我々は男二人を制止、確保した。
そして後は警察にまかせることにしてホテルの従業員に預けそこから立ち去った。

どうも、女性と男たちは知り合いのようであり、昨今の通り魔的な事件ではないということが分かったからだ。


私がここで言いたいことは、今の日本の世相の典型を目の当たりにしたということである。
価値観の多様化のなかで、人々は他人と感情の共有が難しくなっている。

何が正しくて何が間違いなのかを自信を持って言ったり指し示すことができなくなっている。
何事もかかわりにならないことが一番安全だという考えが一般化している。

個人的に正義感を持っていても、自分のすぐ周りの人々が共感してくれるかどうかは全くわからない。
「助けて」と叫ぶ人を助けたくても、多くの暴漢の中でたった一人で立ち向かうはめになるかもしれない。

正義感を持った個人が行動を起こしたとき、彼(女)が一人ぼっちになってしまうという社会は病んでいる。
社会が病んでいるのは、それを構成している個人個人が病んでいるからだ。

積極的に悪事を働かなくても悪事を目の前にして見て見ぬふりをするのは根性は同類である。
そうは言っても弱い個人が身を守るには、争いごとには関わりにならないように努めるしかないではないか、という気持ちは理解できないではない。

しかし、自分さえ無事であればという考えは結局は、そういった個人で形成される社会が一番危険でリスキーな社会でありそれはその中にいる個人もまた危険にさらされるということなのだ。

仮に、自分さえ良ければよいという
100人の中にナイフを持った暴漢が一人が乱入したとする。
この集団は自分さえ良ければよいという考えしかないので、皆ひたすら自分だけは直接かかわりにならないように暴漢と目をあわせないようにしている。

暴漢の目的が殺人であれば暴漢は苦もなく手近の者から順番に目的を達していくことができるであろう。
100人いても一人の暴漢に全滅させられるかもしれない。

しかし、この中に一人でとは言わないが、仮に
3人のこのような暴漢を許して置けないという心情(これを正義感という)とそれを裏付ける何がしかの格闘技術を持った者がいれば、状況は一変する。

暴漢の立場に立てば、どういう集団が最もリスキーであるかということ、つまり善良な者にとって安全な社会とはどういう社会であるか、そしてそればどんな個人で構成されているべきかは明白だ。

私が子供の頃はこうした正義感の強い大人たちが町のチンピラなどの横暴を防いだりたしなめたりする光景を何度も見たことがある。
そして、そういう大人にあこがれた。

自分は今は子供で力もなく暴力からは逃げる以外選択肢はないけれど、いつかはああいった強い大人になって堂々と生きる人間になりたいと思った。
しかし、現在の日本社会は寒々しい限りだ。

と言っても、今の日本人の全てがこのような無関心体質になったわけではない。
我が現空研にも多くの若者がやって来る。

彼らと話していても、こういった風潮にたいする義憤は多い。
もっともこのような風潮のなか毎週過酷な稽古を積むことを苦にせず集まってくる連中であるので現代日本の平均的な若者とはそもそもレベルは違うのだが。

それはおいといて、少し前のバスジャック事件でも、
「もし僕がそこに乗り合わせていたらどういう行動をとるべきだったでしょうか」という質問をしてきた者がいた。

彼は、現在緑帯であるが、鞭のような蹴りをする素質豊かな青年だ。
彼だったらあの程度の暴漢であれば一瞬で制することができるかもしれないが、私はあくまで慎重に行動せよ、とアドバイスした。

私の危機に対応する大原則は2つである。

絶対生き延びる。
理不尽に対しては容赦不要。

理不尽とは、非が全く無いのに自分や他人がいわれなのない暴力をふるわれたり、存在を脅かされたりする様のことだ。

これらの中には人間社会ではどうしても避けられない小さなトラブルは含まれないのは勿論だ。
ガンをつけたとか足を踏んだ踏まないといった瑣末な問題は論外。
こんなものは無視するなり謝るなり、向こうに非があってもどうでも良い。

理不尽とは放っておけば命に関わるとか、人生に関わる名誉を傷つけられるといったことを相手の悪意のもと実行されそうな状況を言う。

こういう状況にあったときは反撃するべきだ。
しかし、いつでも単純に立ち向かえば良いというものではない。

ピストルを持った相手に素手で立ち向かったり、大勢の暴徒の中に一人で突っ込むなんてのは論外だ。
空手に限らないが、格闘技というのは、こういった危機状況への対応という視点で言えば選択肢の一つでしかない。

勿論、格闘シーンになれば大きな力を発揮するし、そうならなくても精神的なバックボーンとしては大変大きな意味はある。
しかし、格闘というのは最後の手段である。

ありとあらゆる手段を熟考し、試みてなおかつ他により良い選択肢がなくなったときのみ浮上してくる考えだ。
そうした前提で、格闘になった場合。

覚えておいて欲しいのは命があればチャンスは無限にあるという点だ。
利が無い場合は撤退も可。

大切なことは生きているという事。
どれほど絶望的な状況にあっても、生きている限り逆転のチャンスの可能性はある。

逆に生き残る可能性が無くなった場合は阿修羅になって報復すること。
極論であるが、武器で致命傷を負ったとしても死ぬまで
10分あれば、その10分間で相手もせん滅できるかもしれない。

もちろんこれは極論であるし、心構えとしての意図である事は理解して欲しい。
死なないことが一番大切だ。

戦えと言いながら死ぬなとは矛盾していませんかと言う者がいる。
これはまったく矛盾しない。

理不尽な暴力には立ち向かうという精神構造が暴力を無くす原動力になるのだ。
多くの個人がこういった心情を持てば、それが暴力を許さないという社会のコンセンサスになり、結果として安全で非暴力的な社会が形成されるのだ。

世の中には暴力を毛嫌いするあまり、格闘技や格闘技的なスポーツまで否定する人々がいる。
私もいわゆる格闘技マニアのような人にはついていけない所もあるが、一般に争いが嫌いだからといって人間や動物の本性から目をそらした考えや生き方はかえって暴力をはびこらせる原因になると思っている。

喧嘩は逃げるが勝ちという言葉があり、これは一面では真理である。

しかし、人生で二度と行かないような海外で現地のチンピラと喧嘩になった、というような場合ならスタコラ逃げるのが一番だが、生活を行っている実社会の中では逃げて避けられるということはまずない。

例えば、会社の経営者や責任者なら誰でも経験するが、ある種の利権がからんでいれば様々な筋の者との交渉といった場面になることも多い。

また筋とはいえないが、会社とある種のかかわりになることで何らかの報酬を得ているような集団との接触もあるかもしれない。

昔と違って強面でいきなり脅したり、たかったりというのは少ないが、何らかの名目で(例えば広告料とか調査費あるいはコンサルタント料といった合法的な名目で)のたかりや脅しを受けることは少なくない。

組織の長であればこうした事態に直面した場合そこから逃げるわけにはいかない。
経営者や責任者でなくても、地元のチンピラとトラブルを起こしたとしたら、本人がその場で逃げても、報復はどのような形が行われるか分からない。

最近増えているいじめの問題にしても、いじめられる側は殆どは暴力が嫌いでいつも逃げている者が標的にされるケースが多い。

実際人間関係のしがらみの中でおきる暴力事件は逃げてすむようなものは殆どないというのが実情だ。

勿論、暴徒が刃物を持っていきなり部屋に飛びこんできたというようなときは緊急避難的に逃れることがベストのケースはある。
しかし、そうした特殊なケースを除けば、社会の中の暴力は陰湿にジクジク行われることが圧倒的に多い。

こうしたごく一般的な暴力を防ぐには理不尽には毅然と対抗するという基本姿勢である。
けんか腰になる必要はない。

態度はあくまでソフトであるが筋は通すという内なる気迫が必要だ。

ただ、これは良くあるケースだが、今まで弱くて常にいじめの標的にされていたような子が空手などを始めて段々強くなっていくと、その初期においていじめが増えることがある。

これはある程度避けられないことだ。
人間も含めて動物というのは、一定のパワーバランスにおいて平穏を保っているところがある。

ある時最も弱いと思っていた者が急に強くなってくると、それを阻止しようという力が働くのは当然のことなのだ。
空手を始めたいじめられっ子がある時期一斉に標的にされるというような現象はあり得る。

しかしこれは一時的な現象でやがて落ち着くところに落ち着いてくる。
大抵は一度あるいは数回は喧嘩が起きる。そこで勝っても負けてもその子が正々堂々としていれば、その気配はやがて周りの子に浸透していき力に応じたポジションを確保していくものだ。

大人でも程度の差はあっても同じようことはある。
若者の場合は空手の道場に行っていることが知れると、酒の席なんかで絡んでくるやつがいるが根は同じだ。弱いやつがポジションを確保しようと必死になっているだけの話で放っておけば良い。

全ての物事はその本質にのっとってやがて収まるところに収まる。

理不尽を許さない心。
そして理不尽な暴力にさらされ助けを求める人を思いやるやさしさ。

日本の武道の真髄が本家の日本から消えかけている。
我々は尚武の心を広げていきたいと思う。

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