2010/08/01
政治家とは職業として政治を行う者である。
民主主義のもとでは基本的に選挙で選出される代議士を指す。
政治家になるにはこの選挙というシスムを経なければならない。
選挙とは自分たちの意見を代表して政治を行ってくれるだろうと期待する人を選ぶシステムだということは言うまでもない。
多くの人たちの代弁者となるのが政治家だ。
決して楽な仕事ではない。
自分を殺してでもより多くの人たちの幸福を実現するために立案し行動し、時には喧嘩も必要だ。
社会というものは、どんなに小さなものでも、また大きなものでも相反する意見の対立と妥協で成り立っている。
普遍的に全てを満足させる方策はない。
最大多数の最大幸福を実現させるというきわめて実務的な処理能力が要求される。
これはかなり聖人でないとできない仕事だ。
大抵の欲深い普通人は自分の利益が優先するからだ。
ほとんどの(良識ある)人は自分には無理だと考える。
本当の意味で「滅私奉公」ができる人でないととてもやっていけないと考える。
だから、そうした聖人を選ぶべく選挙というシステムが考え出された。
私は子供のころから不思議に思っていることがある。
それは選挙の候補者たちがこぞって叫ぶ言葉「お願いします」だ。
何をお願いしているのか。
当然、それは私に一票を投じて私を政治家にしてください、というお願いだ。
握手したりお辞儀したり、中には土下座する人までいる。
なんだか妙な感じた。
子供のころ私は選挙というものは、よほど選ばれた人は得するのだと思っていた。(あるいみ当たっていたともいえるのだが)
当選したら、宝くじにあたったように大金がもらえたり、すごいプレゼントがあるかと思った。
しかし、だんだん選挙というものは政治家を選ぶものだとわかってきた頃から「お願いします」に違和感を覚えるようになり、それは今でも変わらない。
というよりより強くなった。
選ばれた人が得をするシステムということで皆のコンセンサスができているのならそれも良いだろう。
しかし、そうだとしたら「お願いします」はあまりにもあからさまで品がなさすぎる。
自分の利益はおいといて、最大多数の最大幸福を実現させるべく粉骨砕身する人を選ぶのであれば「お願いします」は選挙民、有権者でなければつじつまがあわない。
自分の支持する候補者の選挙カーが通れば、「お願いします」と叫ぶのは有権者のほうではないのか。
そもそも立候補するのも、本来は多くの人たちから頼まれていやいやながら承知するのが筋だ。
「私も私利私欲のあるつまらない人間だけど、そこまで皆さんが頼むのなら、私も一肌ぬいで、社会のためお国のため自分を捨てて皆様のため尽くしましょう」
これならば良くわかる。
「いったんまかされたのであれば、私は社会のため国のために働きますから、個人個人のレベルでご不満の方もでてくると思いますがそれでも良いのですね」
「そりゃ、その時になれば個人として反対する事もあるかもしれませんが、全体の幸福を考えてあなたが結論をだすのならそれに従います。それが選挙ですから」
「じゃ引き受けましょう」
「ありがとうございます。お願いいたしすま。」
「まかせてください。滅私奉公でがんばります」
教科書的に言うとこういう流れになるのが本筋ではないのか。
まあ、日本の民主主義のなりたちを考えるとこれとは程遠いことは分かりきってはいる。
私が高校生から大学生になる頃、福岡では(日本全国大差ないと思うが)選挙はお祭りであった。
友達の友達の親戚のだれかが立候補して宣伝カーの運転手のアルバイトなんかやれば結構な金が入ったし、選挙事務所は食べ放題飲み放題、若い女の子もアルバイトも多くて今でいう合コンのようなものだ。
学生ですらこんなものだから大人ならなおさらだ。
遊びに行って駐車違反や少々の規則違反は知らないまに消えていたりした。
そもそもヨーロッバのように教会と絶対王権と市民の血みどろの抗争の末勝ち取った権利でもなく、明治のちょっとがんばった政治家が持ち帰った西洋主義の土壌の上に今度の世界大戦でアメリカに負けて押し付けられた「民主主義もどき」システムがその発祥なのだから。
日本の民主主義は本来の民主主義とは程遠いなりたちでできている。