ヒット カウンタ

最強への道 その1


現空研空手は、強くなるための空手ではない。

強くなるための手段なら他にもいやという程ある。

 

全然運動していない人なら、毎朝ラジオ体操をやりはじめただけでも何もしないよりは強くなれるだろう。

散歩(ウォーキング)を定期的に行うだけでもそれなりの効果がある。

 

健康維持を目的にした空手体操的なものや、ボクシングをアレンジしたフィットネスのようなものならなおさら効果はあるであろう。

しかし、こうした類のものはせいぜい今より「強くなる」程度のものだ。

 

現空研は単に「強くなる」程度では満足しない。

「圧倒的に強くなる」 これが現空研空手の目標である。

 

「圧倒的な強さ」とはいったいどういうものを言うのか。

それは勝つとか負けるとかといった事を意識しないで普通に勝つ力を持っている事を指す。

 

大人が小学生に喧嘩を売られたとする。

大人はこの子供に対して「勝つ」とか「負ける」とか意識するだろうか。

 

「いったい何事?」といった戸惑いを感ずるのが精一杯のところだろう。

「平常心で相手に集中して全力でこれに立ち向かう」なんて心構えを思い描きながら子供と対峙するだろうか。

 

まあ、普通なら喧嘩を売ってきた子供の頭をなでながら「僕いったいどうしたの?」なんてやさしくあしらうといった程度で収めるであろう。

万が一その子供が本気でなぐりかかってきたとしても、勝負になるはずもない。

 

それは大人は圧倒的に強いからだ。

「圧倒的な強さ」とは、相手と対等にはならないで軽く応対できる力関係を言う。

 

へとへとになるほど戦ってやっと勝ったといった状態は、勝ちは勝ちだけれど、とても「圧倒的に強い」とは言えない。

もう一度勝負すれば勝敗は逆転するかもしれない。

 

現空研はこの程度の強さは最初から眼中にない。

もし、町のチンピラに襲われたとして、丁々発止で戦ってやっと勝ったといった程度では、護身術としての空手はその役を果たしたとは言えないからだ。

 

もう一年以上たったかもしれないが、あるファミリーレストランで昼飯を食っていると、5、6人,の中学生が入って来た。

休日ではなかったので学校をサボっている連中なのだろう。

 

それだけなら、この連中は目にも入らなかったと思うけど、少し離れた所に座った連中は客全員にいやな思いをさせることになる。

彼らが何をしているのかは分からないが甲高いはしゃぎ声がいやという程聞こえてくる。

 

うるさいだけなら、まあ許してやろう。

問題は彼らが発する単語だ。

 

こんな子供がと思うほど汚い言葉をふりまいている。

性器にまつわる放送禁止用語だと言えばお分かりいただけるだろうか。

 

時間帯からして、子供づれの母親とか、外回りの営業マンといった客筋た。

皆顔をしかめている。

 

そのうち店の従業員が注意をするだろうと思っていたが、いっこうにその気配がない。

私は家内と店の隅にいたのだが結構離れているここにもその「単語」は十分に聞こえてくる。

 

私は、とうとう堪忍袋の緒が切れた。

家内は、首を振って止めてくれというそぶりを見せたがこれは見過ごすことはできない。

 

私が、スタスタと子供たちのほうに近寄っていくと。

私が注意をするまでもなく、全員が立ち上がって私の方に向かって頭を下げた。

 

今までの元気はどこにいったのか、蚊の泣くような声で「ごめんなさい」

「お前たちいったい何をしているか」私は一喝した。

 

「僕たち勉強してました」

人間窮地に陥るととんでもないことをしゃべるものだ。

 

周りで失笑が起きている。

「勉強だとー!!」

 

私も噴出しそうになった。

しかし、彼らは真っ青な顔をして真剣そのものである。

 

クチビルが震えているのがわかる。

私は最初から彼らを力づくで懲らしめてやろうとは思っていない。

 

しかし、昨今の若者は何を持っているかわからないので、もし武器のようなものを出したら子供であっても遠慮なく叩きのめす心積もりはしていた。

とは言え、見るからに多少つっぱった程度の中学生である。

 

勝負のかけらにもならない。

動物でも、人間でも勝てない相手は本能的に分かるのだ。

 

彼らは一瞬にして怖気づいて、命乞いのため3流お笑い芸人のような対応をしたのだ。

「勉強」ときたか。

 

子供にとって一番怒られない安全な単語が「勉強」ということで、それがこんな時に思わず口から出たのだろう。

少しからかって脅してやろうかというイタズラ心が起きたが、1人1人の顔を見るとまだあどけない。

 

生意気そうだが良く見ると「かわいらしさ」も残っている。

一言、二言注意して許してやることにした。

 

圧倒的な力の差がこうした結果を生む。

圧倒的な力の差のもとでは、悪いことをしている人間は無力になる。

 

法律も世間もそして圧倒的に強い相手も全てを敵にしなければいけないからだ。

無理やり暴力を振るえば、圧倒的に強い相手に正義のもとでやられることになる。

 

この中学生にしても、注意したのが、「弱そう」な人だったりしたらどういう結果になっていたかは分からない。

 

こういう解決方法を暴力的だと言って毛嫌いする人がいる。

あるとこに招かれて、空手の話をしたとき、「強くなるってそんなに大切なことですか」と棘のある口調で質問した人がいる。

 

「あなたは強くなる事をさも大事なことのように話されますが、人間にとってもっともっと大切な事がたくさんあるのではないですか」

その女性は神経質そうな顔で私に食い下がってきた。

 

この論調で言えば何かに一生懸命になっている人を全て攻撃することきができる。

何をやっていても、「人間にとってもっと大切なこと」と切り出されると議論にならない。

 

その女性は放送禁止用語をふりまく中学生の一団とファミレスで遭遇したら、「あなた方は○○○○なんて汚い言葉を使うよりもっと覚えなければならない大切な言葉がたくさんあるのではないですか」って言えるのかな。

 

おそらく全員直立不動で「ごめんなさい」という結末には絶対ならないな。

 

トップページへ