2011/04/04
本日テレビを見ていて菅総理の驚くべき言葉を聞いた。
二日前に陸前高田に東日本大震災の視察に行き、そこでしゃべった談話としてニュースで紹介されたのだ。
「国としても精一杯最後まで応援しますから」というテロップまで出してこの言葉で被災者を励ましたとニュースは伝えた。
私はニュースを見ていて体が凍る程の衝撃を受けた。
何度も言うが菅総理は善人である。人柄も良い。
しかし、この人には国のリーダーとしての自覚は全くないし、適性もない。
例えば、現空研に住込制の道場と寮があったとする。
そこが大地震で崩壊し、道場は使用不能、寮も住めない状況になったとする。
そこの寮生(現空研会員)が緊急避難先の場所での生活を余儀なくされたとする。
そこに私が行ったとしよう。
「会としても精一杯最後まで応援します」と私が言うだろうか。
私は死んでもこんな言葉は発しない。
応援という言葉は、部外者が使う言葉だ。
なんら権限もなく力も無い者が、自分のできる範囲で精一杯の励ましや微力な援助を差し伸べる時に発する言葉である。
沈没しかかった船の船長が乗務員や船客に向かって「精一杯応援します」なんて言うだろうか。
倒産の危機に瀕した会社の社長が必死で頑張っている社員に対して「応援しています」なんて言うだろうか。
応援とは自分では何もできない立場の人がそれでも何とか心情的に力になりたいあるいは微力ながら援助をしたいという時発する言葉なのだ。
一歩譲って強力な援助ができる立場であっても、指導したり命令できる立場でない者が使う言葉である。
菅総理に悪気はないと思う。多分真摯に国民を思っていることは間違いない。
しかし、この方にはリーダーとしての自覚はない。
リーダーがすべきことは応援ではなく、何かを実行することだ。
リーダーは決断し、行動しなければならない。
また上げ足をとるようだが菅総理の発した言葉にはもう一つ気になる一言がある。
それは「最後まで」という言葉だ。
この最後とはどういう意味なのだろうか。
最後とは今の状況の結末までということだ。
ふつう良い結末を想定した場合は「最後」という言葉はあまり使わない。
病人であれば、「回復するまで」とか「全快するまで」とか「退院の日まで」といった励ましを使う。
最後までという言葉には死を前提としたニュアンスがある。
「最後まで面倒みるよ」とか「最後まで見守るから安心しろ」といった具合だ。
「精一杯最後まで応援する」
という言葉を分かり易く意訳すると
「私は部外者ですが貴方がたはかわいそうだ。自分としては他人としてできる限りの同情をするが、あなた方は悲惨な最後が待っている。しかし自分はあなた方の最後を見届けるまでガンバレと声援を送り続けますよ」
とこうなる。
指導者のやるべき事は応援ではない、決断と実行だ。
緊急時はリーダーは、与えられた権限を最大限発揮し、自分に不足な能力は有能な補佐を集め、あるいは任命し、不適な者は排除し、衆智を集めて企画し、決断し実行せよ。
応援は国民同士でやる。