このホームページの「子供の教育について」を読まれた、
ある音楽家の方からメールをいただきました。
とても感動的な文章です。
「もしよろしければ、ホームページに掲載させていただけないでしょうか。」
という私の問い合わせに対して快諾をいただきましたので、
ここに全文紹介させていただきます。
私と違って才能のある方の例ですが、信念を持った親の愛情と、
それを感謝する子供の気持ちは同じでした。
親のあり方について深く考えさせられる内容です。
「子供の教育について」を読ませていただき、思わず涙がながれました。
どんなことがあっても稽古を続けさせる親の姿が自分の母と重なりあったからです。
私は3歳からピアノを始め音高、音大へ行き今は音楽を職業としていますが、
子供の頃は本当にここに書いてある状況そっくりでした。
私は普通の子供より理解力はありましたが、引込み思案で練習嫌いのどちらかというと低きに流れやすいタイプの子供でした。
ただ、やりたいと言い出したのは自分からで、でも理由はいたって単純、
いつも遊んでいたとなりのお姉さんがピアノを習っていたからです。
しかしなかなかやらせてもらえず毎日のように母にせがんでいたのを憶えています。
あとになって母から聞きましたが、いつまで私が「やりたい」と言い続けるか、じっと見ていたそうです。
というのも、母は一度やらせたら絶対やめさせないという覚悟がその時すでにあったそうですので。
ピアノへの恋心がつのった私は画用紙に鍵盤を描いて遊んでいました。
それを、たまたま家を訪れた祖父が見て「なんでこんな可哀相なことをさせておく」
と、母をおこって即刻ピアノを買ってくれました。
こんなわけで、急に私の長い音楽人生がはじまったのです。
うずまく欲求の出口を見つけ、私はぐんぐん上達して行きました。
先天的に絶対音感があったそうで、才能ある子供として先生からもかわいがられ(絶対音感があまりにもてはやされる現象を私は冷ややかに見ていますがこの話はまた別の機会に)
他の人よりは3、4年は先に進んでいたと思います。
ところが、そこからが問題でした。
最初の目新しさもなくなり、曲もだんだん難しくなってくるとだんだん練習が苦痛になり努力することが出来なくなってきました。
レッスンで先生に叱られることも多くなり、そうすると益々ヤル気をなくしていきました。
休みたいと思うこともありましたが、母は絶対に許してはくれませんでした。
いったい喜んで苦痛に身を投じる子供などいるでしょうか?
キャンディーと苦い薬を並べられて薬に手を出す分別のある子供などいるでしょうか?
常に楽しいこと、面白いもの、楽な方へと引きずられて行く、快楽に対しては実に貪欲で、あらゆる手段を用いてそれを得ようとする、これが本来の子供の正しい姿です。
この本能のみで生きる動物のような存在を、崇高な人間の魂にまで引き上げることこそが親のつとめであり、躾はそのためにあるのだと思います。
子供にとっては親が世界の果てであり、神であり、法律ですから親が快楽に対し「ハイここまで」と線を引いてしまえば従わざるをえないのですが、
いつでもなんとかしてその線を広げよう広げようと考えているものです。
これぐらい泣けばアメをくれるだろうとか、もうひと押しすればオモチャを買ってくれるだろうとか、親の出方を見ながらとてもズルく立ち回っています。
ですので、親がちょっとでも弱気になろうものならガンガンそこを責めてきます。
私もやりましたよ。
レッスンや練習をさぼるためにいろいろなことをやりました。
泣き落とし、お願い、説得、開き直り・・・いろいろやった挙げ句これはダメだと悟りました。
これはもうひと押しふた押しという世界じゃない、母の鉄壁の意志の前にはいつも玉砕の道しかありませんでした。
そんな折、ピアノの先生が結婚して引っ越すことになり、ピアノ教室自体がなくなってしまうことになりました。
となりのお姉さんもこれを機にやめてしまったし、私は内心「ラッキー!」という感じでした。
ところが!!
それを聞いた母がとった行動はどういうものだったかというと、ピアノの先生にその先生の先生を紹介してくれと直談判したのです。
先生の先生は音大の講師です。町のピアノ教室の先生ではありません。
言われた先生もびっくりしたとは思いますが、母の勢いに気圧されたのか、子達の中で小1の私と、音大を受験する高校生二人だけを連れて行ってくださいました。
新しい先生はやっぱり音大の先生だけあって弟子も子供扱いしないので、前の先生が天使に思えるほどレッスンは厳しかったです。(今思えばそれほどでもないけど当時は本当にきつかったです。)
よく、ピアノのレッスンの日は真っ黒、次の日は真っ白、そして一週間かけてグレーがだんだん黒になっていくという感じをイメージしていたのを憶えています。
まさにまさに、この文のように高学年になると私もだんだんへ理屈も言うようになり、
やめたい私とやめさせない母との戦いになりました。
母は叱るときにはよく「自分がやりたいと言ってはじめたものを途中で放り出すのは弱虫だ」とか
「心底やめたいならそれを一生とおせ。今後一切ピアノには触るな」と言っていました。
言い忘れましたが、母がこれほど信念をもってやらせるのは自分が音楽家だからかと思われるかもしれませんが、違います。
母は音楽のおの字も知らない素人です。それなのによくもこんなエネルギーがあったものだと今はつくづく感心します。
しかし私は私で頑固で生意気な子供でしたから、へ理屈をつけては母に猛反発していました。
ではなぜやめなかったのか。
まず第一には私が音楽を好きだったということ。
それから、親の愛です。
何度も言いますが私はそうとう頑固で、特に反抗期は相当なエネルギーで親や社会にも反発していたと思います。
自分が音楽を好きだという理由だけだったら、反抗の態度をあらわすためにわざとやめるということだって平気で出来たと思います。(当時は)
だけど、私だってまるっきりバカじゃありません。
母が私を苦しめるために強制的にやらせているのではないってことぐらい、いや、むしろその反対だということはわかっていました。
ちょっと意外かもしれませんが、一番わかりやすかったのはお金です。
決して裕福とは言えない普通のサラリーマン家庭の収入の中で、当時私の音楽教育のためにいったいどれほどのお金が使われていたか。
レッスン代をはじめ、音大付属の音楽教室の月謝、先生への付け届け、楽譜やレコード、コンサートのチケット、新しい楽器がやりたいと言えばそれを買い与え、先生を探し、母自身もわからないことだらけの世界ではらわれる莫大な労力・・・・。
いったいこの家のどこにそんなお金があるのだろう。と私はのんきにもよく思っていました。そんなにしてくれなくてもいいのに、なんて・・。
その戦い(今思えば親不孝なばかげた戦い)に終止符がうたれたのは高校受験の時でした。
そのころ母は私を音楽の道へ、つまり音高へ進ませようと思っていましたが、私はなおも反発して普通高を志望していました。
いつまでたっても志望が確定しないので担任も困り果てて、もう願書受付締め切りぎりぎりという日に最後の3者面談がもたれました。
「世間一般の高校教育をとりあえず受けて、それから音大へいくかどうか考えればいい。趣味でも音楽はできるんだし。」という私の意見には担任も同調していました。それに対して、母は「はじめから趣味の音楽なんてあやふやなものを目指してどうするんですか。
音楽家を目指してどうしてもダメなら趣味にすればいい。それでも教えることぐらいは出来るでしょう。今の時代男に頼らなければ生きて行けないようではダメですから。」と、きっぱりと言いました。
この言葉を私はこのときはじめて聞きました。
それと同時に目から鱗が落ちた思いでした。
母は私の一生を、人生全体を考えていた。
私が3歳でピアノをはじめたときから、ずっと・・・。
こんなこと私にはできない。負けたよ、ママ。
そして、ありがとう。