ヒット カウンタ

道場での子供達の態度が気になります。

はじめまして。最近子供(小学校2年)と某フルコン空手を習い始めた主婦です。
空手を習い始めてからこのホームページをよく拝見させてもらっています。

実はご相談なのですが、今習っている道場は、親子で練習ができるところに魅力を感じ通い始めました。大人の練習にはスポーツクラブ的な感じで、とてもいいのですが、子供達のだらだらとした雰囲気がど〜も私の求めていたものと違い、納得がいきません。

私が中学、高校とスポーツ系の部活をしていたせいか、なんとも締まりの無い子供達の態度が気になります。
楽しむのもスポーツだ、っと言われればそれまでなのですが、もう少し緊張感があってもいいようなきがします。

強くなりたい、根性うんぬん・・・と言うよりも、習わされてるって感じです。もちろん、我が子もなのですが。
このまま、この道場で精神力や根性というものを、養うことができるのでしょうか?

それとも、何事も本人しだいと言ったところでしょうか。
今ものすごく悩んでいます。時間があればご感想をお聞かせください。

よろしくお願いします。 
(私的には空手を習いだしてから、自分に少し自信がもてるようになりました。) 

          
おっしゃりたい意味は良く理解できます。
こうしたダラダラとした雰囲気は、最近の小学生一般に見られるものです。

いや実は小学生だけではありません。
中学生でも高校生でも、いや大学生社会人にも蔓延しています。

極論すれば日本中がダラダラしているのです。

このダラダラしたという言い方はこの現象を不快に思っている者の表現ですが、これを自由奔放とか自然とかフレンドリーといった肯定的な表現で評価する人たちもいます。

私は質問者の方に近い感覚を持っています。
しかし、こうした現象に対してそれを不快に思わない人が多数であるという現実をまず直視しなければこれを建設的に改善する方法は見つからないでしょう。

現在の教育の基本的な考えは「話し合い」と「納得」そして「自主性の尊重」です。
子供は大昔から騒ぐものと相場は決まっています。

騒ぐ子供を静かにさせるのに「話し合い」と「納得」そして「自主性の尊重」でやっていては、それだけで稽古の時間が終わってしまいます。
これを短時間で解決するには、ダラダラした状況を受け入れてその中でフレンドリーに稽古を行うか、罰を含んだ規則の実行を背景にした一喝で規律を維持するかのどちらかでしょう。

現在の学校の方針は前者ですから、後者の指導方針を採択するには指導者にかなりの信念と覚悟を要求されます。
教育というのは、常にその時代の多数派の考えに沿って行うことが一番無難なのです。(教育だけではありませんが)
明治から戦前までの日本では、富国強兵のスローガンの元、命令一過一糸乱れぬ動きをする優秀な軍隊の育成が最優先されましたから、教育の基本は全てこうした前提の元体罰を含んだスパルタ式が主流を占めたのです。

社会全体がこうした流れの中で動いていた時代では、「話し合い」とか「納得」、「自主性の尊重」などを表に出す教育者はかなりの信念と覚悟が要求されたでしょう。

しかし、時代は一転して自由尊重、個人主義の現代になり、大きな流れが180度変わりました。
こうした時代においては、規則、命令を重視した軍隊的な教育はよほどの信念と覚悟がないと世間の批判の嵐を受けることになります。

質問者の方の問題にはまずこうした大きな背景があることを認識しなければなりません。

次に、わりと見落としがちな観点があります。
それは、大人と子供の差です。

もう少し分析的にいうと、「話せば分かる理解力のある人たち」と「話しても分からないレベルの人たち」の差です。
これは通常は大人と子供ということになるのですが、最近は大人でも「話してもわからないレベル」の人も結構増えてきています。

質問者の方がおっしゃる「大人の練習にはスポーツクラブ的な感じで、とてもいいのですが」がという言葉でもわかるように、大半の大人は社会的な訓練を経て文字通り大人ですから、自由な雰囲気で行っても、きちんとした雰囲気は保てるのです。
これは、戦前の軍国主義の時代でも、ちゃんとした大人の組織では、戦後歪にデフォルメされた小説や映画のようなものではなく、それなりの規律のなか楽しさやユーモアもある建設的なものであったと思います。

歴史は常に現在を肯定しますから、現在の正当性を主張するため過去の欠点をことさら拡大してプロパガンダすることは普通のことです。
実際は同じ人間の社会です。大半の良識ある大人の集団はそれなりの秩序と楽しさを共存させたごく普通の集団であったはずです。

※ここではその集団の歴史的な意義とか善悪を議論しているわけではありません。

問題は大人になる前の人たちの教育方法です。

私は現在の日本はここのところの考察が非常に足りないという感じを持っています。
つまり、まともな判断力も社会性も育っていない者に身分不相応な自由や権利を与え、その行使に対して、適切な賞罰を含んだ教育が不徹底というか及び腰になっている事。

例えば、挨拶一つまともに出来ない子供たちが大量に発生しています。
これは子供達が悪いのではないそれを適切に指導しない大人の責任なのです。

挨拶というのは人間社会のルールとしては基本中の基本です。
でき損ないの代表のように言われる暴走族だって、内部では挨拶できない奴はそれなりの罰を受け「教育」されるといいます。
暴走族を賞賛するつもりはありませんが、現空研には元暴走族のリーダーだった者が何人か在籍しています。
彼らは、現在はみな立派な社会人ですが、一般の社会人以上に礼儀正しく、また社会性や統率力などは優れています。短絡的に肯定はできませんが戦後失った何かの裏返しとしての彼らの存在を考えてみる必要はあると思います。

挨拶なんて指導するのは簡単です。
指導の指針さえあれば。

現実には挨拶できない子供達が多いということは、こういう指導を受けていないという事の証明です。
指導者の側としては、自信を持って指導する指針というか根拠が示されていないという事です。

本当に奇妙な現象です。妙なイデオロギー論争で語られたりしているのです。
挨拶なんて主義も主張も右も左もありません。

人間だけでなく、猿の集団にも存在する「社会」の基本原則なのです。
私は大学で非常勤の講師を務めていますが、講義の最初と最後には必ず挨拶をさせます。

最初の講義で私が教室に入った時私が「おはよう」と言ったにもかかわらず、前の方にいた少数を除いて大半が黙っていたので、これは教えんといかんなと思い、小学生のように「起立、礼」を励行するようにしたのです。

空手道場でのように大きな声で「オス」というわけにいきませんが、始めと終わりがきっちりして良い雰囲気です。
大学職員の方に聞いたらこんな例は初めてですと笑っておられましたが、確かに大学では私の学生時代でも珍しかったと思います。

しかし、声を出してしかるべき時にちゃんとした挨拶ができるという習慣は、学生にとってもこういう世の中ですから余計作法として光ることになるし、講義を行う私も気持ちが良いし、これからも続けていこうと思っています。

小学生くらいの子は黙っていると皆大騒ぎを始めます。
ある程度の大騒ぎは私は認めてやるべきだという考えです。

問題はメリハリです。
例えば、決められた時間になって「止め」とか「集合」といった号令がかかった場合は遊ぶのを止めろといった事は事前に教えておきます。

そしてそのルールを破った場合は相応の罰を与えます。
私は、同じことを短時間の間に3度言われたときは「体罰」を覚悟せよと言ってあります。

一度目は優しく、二度目はややきつく言います。三度目は一喝します。
だいたいこれで収まります。

道場の子供に実際体罰を行ったことはありませんが、行う必要を感じたときは実行するつもりです。
それが皆のためそして本人のためだという確信を持てる場合は躊躇しないでしょう。

子供達はこうした私の方針は本能的に察知するもので、恐らく実際行使しなければならないケースは殆どないのではと思っているのも事実です。

しかし、こうした私の方針は、誰でも実行できるものではないと思います。
まず、自分自身の考え方や生き方に大きく左右されるものであるということ。

次に自分のその社会におけるポジションや人間関係にも左右されると思います。
公立の学校の中での教育であれば、まず学校の方針やそれを取り巻く様々な機構や団体の規則、しがらみの問題があります。

また、一般の道場であれば、実際の道場の指導者と経営者の考え方の違いとか、また会社であれば、現場と上層部の考え方の違いといった問題もあるでしょう。

特に子供の場合は、少数ですが言っても分からない者が必ず存在します。
こうした少数の子供達をどうするかで雰囲気はがらりと変わるのです。

ここで大人があきらめたりさじを投げたりすると全体の雰囲気がダラダラしたものに変わっていくのです。
しかし、言っても言っても分からない子を指導するとしたら最後には体罰の問題を避けて通ることができません。

ここで指導者の覚悟が試されます。
現実には体罰の必要性は殆どないのですが、要はこの覚悟ができるかどうかです。

これは国の防衛問題なんかとも似た議論になりますね。
そして武道、護身術の基本問題にも繋がります。

質問者の方の道場がどういう背景を持っているのかはわかりませんが、実際問題として指導者は皆悩んでいるのが実態ではないでしょうか。
「もし許されるのなら俺だってもっとガーンとやりたいのだよ」と思われている現場指導者の方は多いと思います。

一度、指導者の方に率直お聞きになったらいかがですか。
おそらく喜んで応えてくれると思いますよ。

実際は逆のケースで文句を言われる事が多い指導者にとって、これはうれしい意見でもあるからです。
基本的にはやさしい心情をもった指導者が必要に応じて厳しく処するというのが教育の理想だと思います。

そうしたやさしい指導者への力強い後押しになる声ではないでしょうか。

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