ヒット カウンタ

中国拳法と空手の重心の違いについて



前略

 はじめまして。
 私は○○○○と申します。
 年齢34歳。神奈川県在住です。
 職業は公務員です(自宅ではネットを見れないため、職場の機材でメールさせていただいています。本来は業務以外での使用はご法度なのですが、園田会長のページとクラさんのページだけは休憩時間の友として拝見している次第です。願わくば今回の私用メールも含めてお許しいただけるとうれしいのですが・・・)。
 くどくど言い分けを書いてしまいましたが、質問に入らせていただきます。

 ○片方の足に完全に体重を乗せるのは空手ではタブーなのでしょうか? 
 ○空手の世界では「軸足と手のつながり」という観念はあるのでしょうか? 
 
 というのが質問です。
 長くなりますが、このような質問をした理由を述べさせていただきます。

 まず私が稽古していた流派ですが、
 私の通っていた道場は空手道場ではあるのですが、空手を基礎としつつ中国拳法を主体とした稽古を行う道場でした。
 空手は剛柔流で、拳法は○○拳です。

 ここでの教えですが。
 特に重心のありようとに繊細で、
 軸足(実の足と呼んでいました)には基本的には10の体重をのせて、もう一本の体重が0となる足(虚の足と呼んでいました)は攻撃などの次の動作を行うものとされ、常に虚実の状態でいることと教えられました(酔拳のゆらゆらはその端的な例だと先生はおっしゃってました)。
  もちろん両足で立っている以上は虚の足に多少の体重はかかりますし、例外的に三戦立ちは難しいが有効な重心のありかたと教えられました。

 また、「左足に重心がある場合は右手を使い、右足に重心があれば左手使う」ことを厳密に実行することを教えられました(ごく一部例外はありましたが)。

 そして今回疑問をもった理由ですが。
 先生が亡くなられ、最後までまともに稽古をしていた門下生が4人程しかいない道場でしたので、道場は自然消滅となってしまいました。
 しばらく空手浪人状態でしたが、近頃職場に空手(剛柔以外)の集まりがあることを知り。早速稽古にでてみました。

 そこでいきなり出くわしたのが上の質問とうわけです。

 私は空手をやっていたとはいえ、他流はおろか自分のやっている流派の実態にもさして興味がなく、ただ稽古が楽しいから通っていただけでしたので、先生に教えられたこと以外の知識はまったくと言っていいほどありませんでした。。
 それが初めて他流に足を踏み入れて愕然としました。

 特に追い突き、逆突きのときに、
  ・普通の間合いの場合は両足に同体重で
  ・深い間合いのときの突き(飛びこみ突きと呼んでいます)は、前足8割後ろ2割体重)
 と教えられ。同じ技なのに、間合いによって違う重心になるということが不思議に思えてならないのです。
 
 さらに上の体重配分は教える方によって、微妙に配分に変化があるものですから、
 「空手にとっての重心ってなんだろ?」と混乱している次第です。

 上の質問については、当然に今稽古している空手の先生方にも質問したのですが「ごちゃごちゃ言うなら太極拳に帰れ」に近いことを言われたうえ、分かる分からないのといったことさえの回答も得られませんでした。
 そして「これは困ったな」と思っていたところに、亡くなった先生がよく話てくれた「揚長避短」を良しとする園田会長のコラムを拝見し、救われた思いでメールをさせていただいた次第です。

 以上でございます。長々と失礼いたしました。
 仕事終了後の深夜に書いた文章のため、頭が周らず意味の分かりにくいものとなっているかもしれません。そのときはどうぞご容赦ください。

 ※質問とは関係ないことですが、
  Q&Aに「横拳 縦拳」の記事がありましたが、私たちは威力云々ではなく、間合いにより使い分けるものと 教えられました。
  ・横拳(長打)は広い間合い
  ・縦拳(槌打)は中間の間合い
  ・短打(アッパー)は至近
  本当にそうなのかは、資料にあたったことはないので胸をはって主張できないですが・・・ 

 それでは失礼いたします。
 現空研の今後のご発展をお祈り申し上げます。
 

現空研のホームページをご覧いただきありがとうございます。

ご質問に答える前に、このご質問者の内容とは少し離れるかもしれませんが、教える側と教わる側のありがちな問題として今回のメールをとりあげさせていただきました。

空手に限りませんが、一芸を成した方はそれぞれ自分のやってきた事に対しての自負があります。
またそれなくしては数々の困難に打ち勝って現在の自分はなかったと思います。

したがって自分の流儀にはこだわりを持っているのが普通です。
世間で言われる職人気質などはまさにこのことを言っています。

事実、一般人が持ち得ない技術やノウハウを持っていて、どういう過程をへてその技術を体得したかという嘘偽りのない実証を体現されているわけですから、少々のことでは自信は崩れません。
そして、もうひとつ自分という成功実例の対極として、多くの脱落者の実例も目の当たりに見て知っています。

こうして何十年もの実体験をもとにしたノウハウは強固な信念に近いものがあります。
これが教える方と教わる方にとって良い場合とある種の弊害を生むケースが生ずるのです。

まず教える方ですが、何事か成し遂げた方は自信がありますから、物事を教えるとき断定的な言い方になりがちです。
また、心の中では断定的には捉えてなくても初心者に細々言っても理解できないことは分かりきっていますから、とりあえず分かりやすく断定的に言うこともあります。

教わる方は、必死ですから、それをそのまま信じてしまいます。(場合によっては反発します)
長く教わっていれば、同じ事をいろんな表現で言われるでしょうから先生の言わんとする事の本質が分かってきます。
しかし、初心者の内は最初の一言に固執してしまうこともあります。
あるいは、特定の初心者が変な癖がある場合、それを矯正するためにその人だけに極端な表現を使うこともあるでしょう。

同じ癖を指摘しても、人によって表現は異なります。
ある師範が言ったことを別の師範は違う言葉で表現するかもしれません。

言葉を丸呑みしがちな初心者は、これで頭が混乱することがあります。
生まれて初めて空手の道場に行き、そこでいろいろ新鮮な事を教わります。

熱心な人ほど砂に水が染み込むように知識や技を憶えていくでしょう。
そこで憶えた知識は、空手界の全般に行き渡っている常識もあれば、その流派だけのもの、あるいはその道場特有のものも混在しています。

しかし初心者はその区別がつきません。
そのうえ同じ道場でも細かいことは指導員によって微妙に違う事もあるでしょう。

初めて違う流派や道場に行き異なった動作や説明を受けると、それを心理的に拒否する傾向はほとんどの人に見られます。
あるいは、逆に過去の知識を全否定する人もいます。

今までのやり方は全部間違っていたんだ、と言って本人は生まれ変わったような高揚感をもって新しい技法や説明に傾倒していくタイプの人です。
私自身の過去を振り返っても、この両方の傾向はどちらも自分にありました。

ある稽古方法の良し悪しを正確に判断するにはかなりの実証データが本当は必要なのですが、ほとんどの人はその場の説明の説得力と自分の感性に合っているかどうかで良し悪しの判断をするものです。
これは空手に限ったことではないのですが、人は正しいか正しくないかではなく、自分の感性に合っているか合っていないかで殆どの事の良し悪しを判断しています。

そして、意識としては、「感性に合っている事」を「正しい事」として認識する傾向があるのです。
理論派の人は自分の「感性に合っている事」を客観的にも「正しい事」である証明をしようとします。

俗に「理論付け」とか「理論武装」とか言われるものがそうです。
これはよく考えるとおかしな言葉です。
始めに好きな結論があって、後からそれをもっともらしく説明しようとする努力なのですから。

まあ、人は誰でも自分の感性に合っている事、つまり好きな事を、より普遍的な事実であると思いたい、というだけの事なんでしょう。(と、これも私の考えを「人は」なんて普遍的表現をしていますね・・・・・・・)
とは言え、稽古は継続しなければなにもなりません。

継続するにはやはり感性が合っていなければ辛いものです。
ですから、正しいか否かではなく、感性に合っているかどうかという判断も大きな目で見れば決して間違っているとは言えないのです。

しかし、自分の感性に合わないからといって、これは間違いだと主張したり、主張する努力は自分にとっても社会にとっても益のあることではないでしょう。

いろいろな考え方や方法が世の中にはあるものだ。
でも自分はこれが感性に合っているし、間違ってもいないと思っているけど違うかもしれないな。
という程度の気持ちでいれば、様々な流儀の存在にも寛容になれると思います。

前置きが随分長くなってしまいましたが、「空手ではタブーなのでしょうか」あるいは「空手の世界では・・観念はあるのでしょうか」というご質問には私は的確な回答をする自信がありません。

おやりになっていた空手の立ちかたは、剛柔流系に近い重心位置だったと思います。
これは他の主要流派とは明らかに異なる立ち方です。

したがって初めて体験する他流派の立ちかたに驚きを覚え、そしてご自分の感性を補強するなるべく客観的な意見が欲しいという気持ちはわかります。
私も感性としては近い所にあるとは思います。また自分の立ち方に自信はありますが他の立ち方を否定する程の材料は持ち合わせていません。

私が他流派の教えを請う機会があれば、それを批判したり、最初から否定的な態度で質問することはしないと思います。
それは、技だけではありません。挨拶やしきたり、その他の作法もまずそれに従うのが教わる側の最低限のエチケットだと思うからです。

そして、ある程度交流も進み人間関係ができれば、必要に応じて純技術的なことで、質問したり説明を請うという順序になると思います。

もし最初から感性に合わないと思ったら、その道場はきっぱりとあきらめて行かない方が良いと思います。
逆に、その流派の空手を本当にやってみようという気持ちが少しでもあれば、全くの初心者のつもりである程度全容がわかるまでは素直な気持ちで、そこでの流儀に従ってやってみてはいかがですか。

異なる流儀の空手でもやがて過去の技法が生かせる機会は必ず来ると思います。

質問者の方は亡くなられた最初のご師匠が人間的にもりっぱな方だったのでしょう。
その方への尊敬の念が背景にあっていろんな疑問がでてきているのだと思います。

その気持ちは大切にしつつ、より良い将来を考えて空手をお続けになることを期待しております。


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