プロとアマの差

2018/03/06

 

 

プロとアマの差はどこにあるのだろうか。

私自身いろんな分野でプロの世界アマチュアの世界を持っている。
まず、コンピュータプログラミングに関してはプロである。

大きな仕事では多数の専門家(プロ)を交えたプロジェクトの経験もあるし、多くのアマチュアプログラマーも見てきた。昔はアルバイトで雇った事もある。

ジャズピアノではアマチュアとして長い間楽しんできたし、現在も続いている。
アマチュア同士のバンドをくんだこともあるし、プロのバンドに参加させてもらった事もある。

格闘技の世界については最後に述べたいと思う。

まず、コンピュータの世界から。
プロは技術が上でアマは下、こうした構図にはならない。

プロとはそれで飯を食っている人達の事を総称して言っているだけで、技術レベルは千差万別である。
アマといえども、数学や工学の専門家もいるわけで、たまたまプログラミングに関してだけ初心者という人もいる。

だから、プログラム技術は初心者でもアルゴリズム(解法)や着眼点に関しては並のプロ以上の人は大勢いる。

しかし、私はアマチュアの書いたプログラムはすぐわかる。
プログラムを見なくても完成したオブジェクト(成果物)やアプリなどでも少し使うとすぐ分かる。

なぜ分かるのかって?
それは、多分どんな分野でもプロの人はアマチュアの仕事はすぐ分かるはずだ。

何となく分かるのだ。
アイディアや着眼点にすごく光るものがあったとしても、それはそれ、アマはアマだとわかる。

音楽に関しては私はアマチュアだ。
しかしプロの方たちとの演奏をある程度経験すればこれもその違いがわかるようになる。

この分野でも、アマチュアで凄い腕の持ち主は大勢いる。
テクニックだけでみると並のプロでは太刀打ちできないレベルの人さえ存在する。

でも、やはりプロはプロと感じさせるものがあって、それは大きな差である。

それはプロの余裕というか懐の深さだと思う。
まず、その世界の常識を熟知していて独りよがりの所が無い(少ない)。

アマチュアは、総じて頑張りすぎるのだ。
特にプロと一緒に仕事をするとか、自分を披露する機会があると、皆自意識過剰になりがちだ。

楽器の演奏だと、自分の能力を目一杯出そうと頑張る。
何処かに褒められたいとか、認められたいという意識が働くのだ。

十分に上手な人でもアマチュアには概してそういう雰囲気が見える。
だから、見ていると何となくハラハラしてしまう。

アマチュアが作ったプログラムもどこか、認めて貰いたいといった気持ちが先走っている感じがするものが多い。
また、ものすごい基本的な常識が欠けていたりする。

つまり安定感が欠けるのだ。

演奏家だとスタジオミュージシャンなんかがプロ中のプロなんだけど、どんな場でも極めて安定している。
伴奏なんかしても本当に影武者に徹底しており、しゃしゃりでることがない。

アマチュア演奏家の伴奏は歌手やソリストと争っているように見えることがある。
ジャズの場合なんか特にそうだ。

私はこんなアドリブもできるんですよ、といった自己アピールを感じてしまうことがある。
勿論これは自戒を込めて言っている。

とにかくアマチュアは頑張りすぎるのだ。
実力のあるプロから見ればアマチュアの力はすぐに見抜いてしまう。

変に頑張っても意味はない、ということをまず知ることが大事た。
自分は自分以上でも以下でもない。

ありのままで勝負すれば良いし、それ以外の選択肢は全て滑稽でさえある。

一方プロの立場で言うと。
確かに安定感はあるし、業界の常識というか客観的な判断、自分の立ち位置などは十分に承知している。

それで生活が成り立っているわけだからそれは当然の事だ。
しかし、逆にそうした安定感が新たな冒険をしないという停滞性を生むこともある。

勿論プロはプロの世界で生存競争もあるし上を目指せば当然困難なが課題もでてくるのだが。

さて、格闘技の世界に目を向けてみよう。
格闘技の世界でもアマとプロの世界はある。

ここも他の分野と同じで、アマがプロの世界にチャレンジする場もある。
今日はこの問題を考えてみる。

現在空手はプロ競技の存在は無いに等しいので、空手家が挑戦するとしたら、キックボクシングやその他の異種格闘技への挑戦とういことになって更にハードルは高くなる。

アマチュアの立場からのアドバイスとしては、先に述べたようにまず「自分は自分以上でも以下でもない」という事をしっかり自覚することが一番大切だと思う。

アマチュアがプロの前で背伸びしたがるのは、「プロは全てアマチュアより技術的にもその他の能力においても上である」といった誤った固定観念にその原因があるということは先に述べた。

プロの安定感はいわば自分を知っている安定感であり、場数を踏んでいることから来る慣れ、その世界の常識を熟知していることから必要以上の緊張をしなくて済むことにある。

純粋に技術や能力だけを取り出せば、上級レベルのアマチュアとはそれほどの差はないものである。
アマチュアは必要以上にプロをリスペクトしがちだ。

勿論プロに学ぶべき点は山ほどあるが、勝負となると話は違ってくる。
逆にアマチュアと戦うプロの立場になってみると、それそはそれで厳しい条件となる。

プロとして世間に公表して戦っている以上素人に負けるわけにはいかないからだ。
別の意味でプロ同士の試合とは違っ緊張感が生じる。

アマにとって有利な点は敵は自分をよく知らないことだ。
簡単なプロフィール程度は分かっても、殆どの場合手合わせしたことなないだろうし、力は全くの未知数なのだ。

アマの側としてはこれは大きなアドバンテージになる。
相手の力量が分からないというのは力のあるプロにとってもそれなりのプレッシャーになる。

特に空手という武道は、古来得たいの知れない多くの達人がいる世界である。
一般人としての常軌を逸した化物みたいな人が大勢いる。

私の若い頃にもそういう得体の知れない怪物みたいな人が私の回りだけでも数人いた。
多分どの道場にもそういう伝説的な人は何人かいたのではないか。

素手で砂利に貫手をしたり、刃物を素手で掴んだりする人だ。
ヤクザの刀を素手で掴んでケンカに勝った人は現空研にもいた。

プロにとってこういう未知の世界や都市伝説のようなものでもやはり気にはなる。
化物のように強かったプロボクシングの世界チャンピオン、マイクタイソン。

彼が日本来た時、「日本人は全員柔道か空手をやる」と思っていたという話を聞いた。
「日本人はいざとなったら腹を切ったり、飛行機で体当たりをする」という潜在意識をどこかに持っている外国人は少なくない。

日本人が良し悪しは別として、外国人にある種警戒される原因の一つにはなっているだろう。

こういう一見些細な印象がいざと言う時、意外なプレッシャーになっていたりするのだ。
空手家はそういった意味でもこういう相手を警戒させる都市伝説は豊富にもっていると言って良いだろう。

もちろん、箸にも棒にもかからない実力であれば、試合が始まればすぐに化けの皮ははがれるのであるが、それなりの実力者の場合は、更なる秘技を持っているのではないかという警戒心を相手に与える。

事実10年、20年と修行を積んだ空手家であれば隠し技の一つや二つは持っているのか普通だ。
秘技は何度もやって見せれば秘技ではなくなるが普通は実戦でもないかぎりは一生に一度も使わない。

そういった意味では武士の刀ににている。
武士は毎日のように剣術で腕を磨くが、一生に一度も刀を抜かない人の方が多かったのではないか。
時代劇では毎日のように切合をしているが、江戸300年の歴史の中で刀を抜いて戦った武士の割合どのくらいだろう。

武士をアマチュアとして分類するのは多少問題もあるが、現在のプロ格闘技のように大衆の前で勝負をして給料をもらっていたわけではないので、そういう意味では格闘のアマチュアである。

しかし命を欠ける戦いでは強かったに違いない。

空手家は現代の武士である。アマチュアとしての武士。
見栄を張る必要はない、目的に準じて自分を貫くことだけ考えれば良い。

自分は自分であり、最善を尽くすのみ。
自分以上にも自分以下にも見せる必要はない。

こういう心境で平常心で脱力して向かって来る相手はプロにとってはプロ以上に厄介な相手なのかもしれない。

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