「先生は子供の指導は時々厳しい言葉で指導されますが、大人に関してはやさしいですね」と言われる事がある。
たしかに子供たちにはきびしい声をかけることがある。
それは以前にも書いた事があるが、子供への注意の原則が「3回注意」だからだ。
一回目はやさしく、二回目はそれよりきびしく、3回目はこれが最後だと教える。
それが破られた時は一喝する。
最後の一喝だけを聞いた人はびっくりするが、そこまでには過程がある。
一方大人であるが、大人は全くこういう原則を与える必要がない。
なぜなら、そもそも注意をする必要がある人はほとんど道場にはいないからだ。
たまに注意すべき事が発生してもその回数は子供とは比較にならないくらい少ない。
だから結果としてやさしく見えるのだが、ことさら大人に対してやさしくといった配慮はしていない。
必要がないことがその理由である。
先日我孫子道場のWatanabe初段(ソウちゃん)から面白い本を借りた。
福田和也著の「乃木希典」である。乃木希典は言うまでもなく日露戦争で203高地でロシア軍を激戦の末破った英雄である。
乃木希典の評価は当時から現在まで様々な視点から分かれるところではあるが、その高潔さにおいて異を唱える人はいない。
その福田氏の本で面白い記述があった。
引用する。
「乃木が挑んだ道は、いわゆる武士道よりも、格段に厳しいものだった。武士はみずからに戦うことを課している。武士として戦うものは、皆志願した戦闘者だ。であるから、いにしえの武将は、志願兵である武士を統率しているにすぎない。山鹿素行が論じたように、百姓には戦う義務はない。彼らは納税だけをしていればいい。
近代国家は国民にたいして、戦うことまで要求する。だとすれば徴兵軍の統率者は、武将よりも、一段も二段も高い、つまりは本来ならば戦う義務のないものたちを戦わせるにたるだけの、何かを持っていなければならないことになるのではないか。」
現空研に来る大人の会員はここで言うところの武士である。
自ら志願した戦闘者なのだ。
だから、私は大人の会員には、もっぱら技術的な解説を行うだけで用はたりるのだ。
私の役割は単なる統率者にすぎない。
仮に百歩譲って指導の必要があったとしても最低限の言葉の説明で用は足りる。
一方子供の方はと言うと、高学年の子供たちを除くと、殆どは徴兵されてきた兵隊たちなのだ。
もともと自ら戦闘を望んで来たものたちではない。
まさに少年部は近代国家の軍隊と言って良い。
これを統率するのは武士を統率する事の何倍も難しいのである。
福田氏の考え方を借りると近代国家の軍隊を統率できる者こそ、真のリーダーシップの持ち主だという事もできる。
私も福田氏と同じような感想を昔から持っており、それが子供の教育の基本的な考え方となっている。
徴兵された軍隊は、もともと戦う事は好きではない者が大半を占めている。
戦う事の是非はともかくとしても、こうした自発的規律がなく弱体の軍隊を統率し1人1人の能力を高め、軍隊としての戦闘力も高めるには、武士を更に強くする方法とは異なって当然である。
教育とは教え、育てると書く。
まず教える事。
教えなければならない事はたくさんある。
もともと徴兵には希薄な「自主性」なぞに任せていては、全員戦死するのは目に見えている。
内容の重要性なども理解できない年齢にむざむざ非効率的な自発的学習なぞを期待するのが間違いなのだ。
まずは黙ってついてこさせる。
やがて子供は一定の年齢に達すれば理解してくれる。
本当の意味のやさしさと愛情があれば。
私が子供と大人では全く異なる方法論で接する理由は以上である。