ヒット カウンタ

女らしさとは


「男らしさ論」に続く、「女らしさ論」を待っています。
というリクエストを頂いた。

私は、男は男らしく生きろというのが持論(現空研は何を追及するか)であるが、女の生き方に関しては論を展開したことがない。
言われてみてはっと気が付いた。

「男は男らしく」と言うからには、その対になる「女は女らしく」という論が無ければつじつまが合わない。
男らしさという言葉が死語になりつつある現在、女らしさという言葉も別の次元で死語になりつつある。

男らしくないという言葉は男にとって屈辱の言葉である。
「お前男らしくないなあ」と言われて喜ぶ奴はまず居ないだろう。

しかし、女らしくないという言葉は必ずしも悪い意味だけではない。
女らしいという言葉に託されているイメージ、「か弱さ、控えめ、消極的」が社会に進出してきた現代的女性の理想像と一致しないというより、むしろこれと反対の「強さ、自己主張、積極性」といった要素をもてはやす傾向が社会にあり、それは女らしくないという言葉とフィットするからだろう。

その傾向は最近のヒットした映画を見てもわかる。
昔のように悪者にさらわれたり、危ないシーンでは悲鳴をあげるか気絶するしか能のない美人ヒロインは今の映画にはまず出てこない。

アクション映画には必ずスーパーマンのような女性が登場する。
また、美人の基準も昔とは随分ちがっている。

一昔前の男性週刊誌のピンナップ写真のように体脂肪率の大きそうな美人は姿を消し、腕や足が筋肉で筋張って顔にも脂肪のほとんどないようなトレーニングジムの宣伝のようなアスリート系美人がもてはやされる。

しかし、一方マスメディアで特集される理想のお嫁さん像は、料理の上手な人とか、やさしい人、お袋の味を感じさせてくれる人といった意外な古典的女性論も根強い。

女らしさは男らしさよりかなり複雑であることがわかる。
こうした複雑な女らしさ論が生まれてきたのには、大きな理由が二つある。

それは、まず男が男らしくなくなってきたこと。
もう一つは女性が自立できる社会条件がだんだん整ってきたこと。

である。

日本に関して言えば、特に最初の男が男らしくなくなってきた事の比重は大きいと思う。
まず戦争で負けたことで、日本中の男が自信喪失状態になった。

そして戦後の多様な価値観の乱立状態のなか、特に武道(武士道)が極度の戦争忌避症候群ともいえる社会状況で抹殺されてきた。
私は昭和23年の生まれであるが、当時は、OCCUPIED JAPAN(占領下の日本)で主権国家の日本ではなかった。

柔剣道はおろか戦争ゴッコすら禁止されていたのである。
柔剣道がやっと教育で認められたのは私が小学校に入った頃であったと思う。

そしてなさけないことに、こうした去勢状態に堂々と反論する大人たちが少なかったことが現在の日本の状況を作る根本原因になっていると思う。
「平和」という言葉が極上のスローガンとしてもてはやされ、それに少しでも抵触しそうな言葉が入る思想や考えは、それが実質的に穏健な社会を目指すものであろうとなかろうとそれこそ味噌も糞もいっしょくたに否定されてきたのだ。

男らしさという言葉はこうした社会状況のなか常に日陰者扱いをされつづけることになる。
一方女のほうは「戦後強くなったのは女と靴下」と揶揄されるが、これも男の男らしさ否定論の裏返しであって強くなったのは女ではなく、男が弱くなっただけの話である。

女が実質的に強くなったのは戦後ではなく、それよりもずーっと後になってからだと思う。
私の実感ではいわゆるバブルの時期あたりからその兆候が見え始め、現在もビシネスの世界だけにとどまらず、学問、スポーツ、芸能他全ての分野において良い意味での女性進出が目立つようになってきたと思う。

そしてこの傾向は日本というよりむしろ欧米、アジアを問わず世界的な動きであり静かなる世界革命の序曲のようにも感ずる。
しかし日本の場合は戦後の歪な男らしさ否定論とかぶってしまい何か不健全な状況が現出している感じがしてならない。

こうした私の考える日本の状況が正しい認識だとして、現代における女の「女らしさ論」を男の私が独断してみようと思う。
まず、男が男らしい社会では、女が女らしくあるというのは極めて自然なことで特段の気合も必要ないだろう。
女の母性であるとか、やさしさ、を発揮できる場が多いからだ。
一方能力のある女が社会に進出しても、男らしい男はそれに嫉妬したり妨害することも無いだろう。

しかし、残念ながら現在の日本はこうした状況ではない。
男らしくない男で充満しているのが今の日本だ。

こうした中での女らしさとはいったいどういう形であるべきだろうか。
例えば社会におけるセクハラとかストーカー事件、またインターネットや携帯電話を媒介した卑劣な刑事事件の数々。

明治の気骨を持った男はいなくなり戦後の味噌糞状態のなかで育ち倫理や規範を喪失した男達の中で生きていかなければならない女たち。
私は現在の日本の女はまずこうした日本の特殊状況を認識することが手始めだと思う。

こんな中で昔風の「女らしさ」なんかを表看板にして生きていくのは、狼の群れに裸の羊が飛び込んでいくようなものだ。(羊はもともと裸か)
まず、男、性悪説を出発点とすべし。

全ての男の誘いはそれが善意であろうと無かろうとまずは「ノー」と言うべきである。
飲み会の帰りとか同窓会の帰りに親切そうに送ってくれる申し出も全て断る。

初めて会った男に携帯の番号を教えるなんてもってのほかである。
2回目でもだめ。
永遠にダメである。
メールアドレスは、どうしも教えなければならない状況になったら全ての男にフリーメールか会社のメールしか教えてはならない。
そしてメールサーバーは管理者に監視されていると事前に告げるべきである。

男は女から「ノー」と言われることに慣れている。
殆どの男は殆どの申し出を女から断られるようにできているのだ。

逆に女から「ノー」と言われただけで逆切れするような奴は、男というより人間失格者であると心得るべし。

次に現代の女は強くなるべし。
精神的にも勿論のことであるが、まず肉体的に強くならなければいけない。

男でも女でも強い者はやさしくなれるのである。(強い者はやさしいとは言っていないぞ)
チャーリーズエンジェルやヤワラちゃんほど強くなくても良いが、セクハラする馬鹿おやじなんかは一撃で倒すくらいの気構えは持って欲しい。

そして女にモテル女をめざして欲しい。
男もそうであるが、同性の目というのは厳しいものである。

同性の女が評価する女はきっと人間としてすばらしいものを持っているからであろ。
大勢の男にはちやほやされるが仲間の女に嫌われるというのは、どこか根本的な欠陥があるか社会性が欠如している可能性が高い。(但し嫉妬によるものは割り引きして考える必要はあるけどね)

ただし極端な男嫌いの女がたまに女の中のヒーローになっているケースがあるが、こうしたケースは一目見れば大体わかるので、これはこれで価値観の問題であって今回の議論の範疇からははみだす。

そして最後に女はきれいであるべし。
と言ってもミス何とかとか整形美人のように成れと言うのではない。

やはり一番は清潔感である。
特に最近のオギャルとは言わないが、公共の乗り物の中で化粧をしたり、地べたにウンコ座りしたり、うんざりするよな不潔な女が増えている。

若い子だけではない。
結構年配の女性でも何とも言えない悪臭を漂わせている者がいる。
これは我々男でもそうなので、自戒も込めて言わせてもらう。
不潔は論外だ。

つぎに、美人についてであるが、
これは男の感じる美人というのは女が思っている以上に個人差の大きいものだ。

私見で恐縮なのだが、私が美人と考えるテレビタレントは世間の評価とはかけ離れている。
逆に世間では美人とされている女優やタレントでも首をかしげたくなる人も多い。

実名を挙げると問題になるので伏せておくが、ブスの代表のように言われているお笑いタレントをそうとは知らず美人女優だと勘違いしていたこともある。

これは私だけでなく世の多くの男どもは好みは千差万別であるという事だ。
これは美人でない人を慰めるために言っているのではない。

自分の知り合いの良い男の恋人や嫁さんを思い浮かべて欲しい。
逆に美人の相手の男でも良い。

私の言っていることが証明されただろう。

「女らしさ」とは清潔であること、そして強いこと。
そしてやさしいことだと思う。

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