日本一の寝技師 奥田義郎先生の思い出

2013/07/13

私が九州、福岡の修猷館高校に通っていた時、体育の先生は奥田義郎先生だった。
奥田先生は柔道部の師範でとにかく強い先生だった。

全日本選手権では東京オリンピック金メダリストの岡野功氏を寝技で破っている。
岡野功氏は全日本、世界選手権、オリンピックの全てに優勝経験した柔道三冠王である。

その岡野功と奥田先生は三回戦ってそのうち一回しか敗れていない。
「どんな大男でも寝かせてしまえば条件は一緒」が口癖で絞め技、関節技は世界一の技術の持ち主である。

私は一年の時体育の授業で初めて顔を合わせた。
いつもニコニコしているのだが、鼻は曲がっているし耳がつぶれていて何か底知れない凄みを感じた。

私はすぐ名前を憶えられた。
当時体育の授業は決められたトレーニングパンツが指定されていたのだが、高校一年は家の都合で下宿生活をしていた私はいつも洗濯が間に合わず、柔道着のズボンで体育に出席することが多かった。

私は今でもそうだが着るものに無頓着だったので平気だったが、奥田先生はいつも恰好がおかしいと言って笑っていた。
柔道家のくせに。

先生は修猷館の柔道場に住んでいると噂されていた。
そして犬を飼っていた。ブルドックで先生と良く似ていた。

私は柔道部ではなかったが柔道部に友達は多かった。
一番の親友は一年生の時同じクラスになった高崎だった。(二年生になって現在弁護士をしている林、三年生で同じく弁護士の羽田野と親しくなった。羽田野は後九州大学柔道部をへて卒業後はやがて総監督となり奥田先生を九州大学柔道部の師範としてお迎えすることになったのである。)


2013/05/31 築地にて 修猷館ミニ同窓会 右橋私の隣が弁護士・九州大学柔道部総監督の羽田野
左より 灰渕、田中、園田真一、羽田野、園田(私)

逆に殴り合いの喧嘩をしたやつも柔道部は多い。
強くて印象に残っているのはSとKだ。この二人とは決着をつけないまま仲直りをした。

高崎は柔道も強かったが頭も良く東大医学部を目指していた。
文武両道を絵にかいたような男だった。

私は彼は絶対東大に受かると思っていたが、一次試験で落ちるというあり得ない失敗をする。
その時私の家を訪ねてきて二人で屋根の上に上って彼の無念の思いを聞いた。

彼が当時二期校であった東京医科歯科大学に入った時、彼が柔道より空手を選んだ原因は私だ。
彼は私の生の喧嘩を何回か見ている。

喧嘩にはやっぱり空手の方が有利だと思う、そう彼は私に言った。
私は叔父が空手をやっていたのでいくらか知ってはいたがとても空手をやっていますというようなレベルではなかったけど、彼から見れば空手使いに見えたのだ。

彼は若くして理不尽な事故で亡くなる。
私の人生の中で最も無念に思う事件の一つである。今でももし彼が生きていてくれたらと思う事は多い。

話は奥田先生にもどる。私は園田、彼は高崎
出席番号順に並んだ時大体私のすぐ後は高崎になる。

柔道部の高崎、そしてすぐ名前を憶えられた園田。
この組み合わせが奥田先生にとってはとても手軽な組み合わせとなった。

体育の授業ですぐ絞め技を教わった。
高校一年生のしかも正課の授業でいきなり絞め技を教わったのだ。

そして頸動脈や静脈の位置、気道を締める意味など。
そして何人かが実験台になった。
 


現空研で教えている絞め技の基礎は奥田先生から教わった。 写真は現空研のHayasi初段(2013/6/23 目黒国際高校での稽古)


足の絡め方も奥田先生に教わったもの


腕ひしぎ十字固の手の握り方や位置、腰を浮かせて効かせるコツなども奥田先生の教え

決まって私と高崎が呼ばれた。
奥田先生は私に手取り足取りやり方を教えた。そして高崎を締め落とせと命じた。

私は怖かった。親友の首を絞めて仮死状態にしなければならないのだ。
私はわざと力を抜いて恰好だけ首を絞めているふりをした。

こんな小細工を見逃す奥田先生ではない。
日本一いや世界一の絞め技の達人なのだ。

奥田先生は今にも私を落としそうな気配で近づいて来る。
「許せ、高崎」私は心の中で叫びながら彼の首を絞めた。

しかし、今一つ力が入らない。
中途半端に絞められた高崎は真っ赤な顔をして断末魔の声を絞り出す。

「馬鹿野郎! 中途半端に絞めるけん余計苦しかろうが。はよ落とさんか」先生が叫ぶ。顔は笑っている。だから余計怖い。
その時高崎が本当に落ちたかどうかは今では思い出せない。

先生がすぐ活を入れていたから落ちたのかもしれない。
先生が締めると誰もがあっというまに落ちた。

奥田先生とじっくり飲んだのは私が40を過ぎてからの事だ。
修猷館の同窓会の総会が東京で行われ、私はそこで修猷館館歌をジャズ演奏した。(平成5年度東京修猷会総会 6/29 ホテルグランドパレス 実行委員長 土井孝夫 京都大学空手部出身)

(閑話休題 修猷館館歌はジャズでアドリブやるのがとても難しい。大体こんな歌は伝承で歌っているのでじっくり楽譜を見たことがないし、手元にも無かった。譜面を起こしてみてびっくりした。前半は四拍子で後半は三拍子でできているのだ。よくこんな変な構造で行進なんかやっていたものだ。行進の時は一小節づつ頭が右足と左足交互に変わっていたことになる。バンドの連中は全員修猷館卒ではなく外人もいた。歌詞なんか皆知らないわけだし、私は物理的に四拍子で区切って楽譜を彼らに渡し、それぞれが思い通りにアドリブをおこなったのである。その後もうちょっと詳しく調べてみた。今は修猷館のホームページに楽譜が掲載されている。頭から8小節は四拍子でこれは普通。そのあと一小節三拍子が入り、次の一小節は四拍子、そして三拍子が五小節入り最後の一小節は四拍子で終わる。三拍子は合計で6小節となる。3×6=18 これが最後の一小節を四拍子に戻した意味がわかる。そうしないと3×7=21 で奇数となり、二番に入るとき拍子は裏になるからである。しかし18は4の倍数ではないので、強引に四拍子でカウントすると二番は頭が三小節目から入ることになる。ジャズでコード譜だけで渡すときはどうしても半端な小節を付加するか休符を長くとって辻褄を合わせたいところだ。(楽にアドリブさせるため) YouTubeで面白いものを発見した。最近の修猷館の斉唱動画だ。運動会のものだ。応援団が体を前後に揺すって拍子を取っている。二拍子だ。三拍子のところも同じ動作を繰り返す。当然一小節ごとに体の動きが裏表になっている。
しかし最後は自然に四拍子で終わり、二番の頭で表に戻るという奇跡を演じている。これは見事な修猷館歌特に二番からのハモリが美しい3拍子の切り替えもすばらしい、複雑な楽譜に忠実に歌っている。 なぜこんな構造になったのか? 歌詞を見ると確かにこうした方が歌いやすい。「皇国のために」はコウコクのタメにでは字(音)余りになる クニノタメでは字(音)が足りない。ミクニを全て四分音符にすれば4拍子で行けたはずだ。しかしミクニ(皇国)はどうしも強調したかったのだろう。この歌の中で二分音符を小節の頭にもってきているのはここだけだ。大正12年に制定されたというこの修猷館館歌、皇国、至誠、剛健、質朴、海の内外、陸(くが)の涯(はて) 本当に歌っていて気持ちが高揚してくる。イギリスの国歌とも言える「威風堂々」も最初の短い音符の集積から盛り上がる歌の部分ではゆったりとした長い音符が多用されている、歌詞の過激度は修猷館を上回る、領土拡張を願った国粋主義的な内容だ。しかし外国人である我々が聞いても嫌悪感はない。むしろあっぱれな好敵手と思える。音楽と武道は深いところで似ている。

 

その時20何年ぶりに先生とお会いし、先生といろんな話をした。
柔道の話では先生がオリンピックの女子強化選手の指導をしている話など伺った。

オリンピックを目指す女子柔道の選手たちの具体的な筋力やその他の能力や訓練の話などいろいろ興味深い話を伺えた。
男子の格闘家しか接触の無かった私はその時の話が現在の現空研女子部の指導にもおおいに役立事となった。

その後私は空手の先生や合気道出身の先輩からもいろいろ関節技を教わったが、最も大きな影響を受けたのは時間的にはほんのわずかだった修猷館時代の奥田先生から教わった技術だ。
技術というよりはその奥にある本質だったのかもしれない。
  
質実剛健の偉大な歴史はあっても戦後は受験戦争の進学校の流れで頭でっかちな子が多かった修猷館で年齢は我々とさほどは違っていないのに古武士のような風情を持ち、それでいてどこかユーモラスだった奥田先生。

奥田先生は文武両道を言う学校はたくさんあるけど、その両道を同じ生徒で(ここが大事)で実現させようとしているのは修猷館だけだと言われたという。
とにかく素晴らしい武人だ。

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