2015/06/10
何十年も空手の指導を行っていると伸びる人の共通点というか特徴というかある傾向が見られることが経験的に分かってくる。
そして、その傾向は空手に限らないということにも気づく。
それは多くの指導者や教育者が感じている事だが、現在の日本ではあまり歓迎されないというか、戦後否定され続けているためなかなか堂々と言われない事でもある。
西暦2000年を迎える年「新年にさいして」というコラムに解剖学者の養老孟司氏の言葉を紹介した。
それは
「志があり、自分の言葉もあり、自分の価値尺度を持ち、これは将来活躍する人材である」と思う若者には共通項が3つある。
1.親が自営業
2.兄弟(家族)が多い
3.お稽古事、伝統の武道・芸能を習っている
とういうものであった。
これは、東京大学で長年多くの学生たちを指導してこられた氏の率直な感想だったのだと思う。
これは私も深く感じるものがあった。
この言葉を16年後の今読み返してみるとその時は見えなかったいくつかの点に気付く。
まず、氏の言われた3点は現時点では自分の努力でどうしようなない事ばかりだ。
親の職業は子供には選択できない。
兄弟の数もどうしようもない。
お稽古事や伝統の武道、芸能はかろうじて自分の選択の余地はあるが、子供の頃という環境では親の意思で決まることが多い。
こうしてみると、これは自分の努力の余地がない。
氏は本音を言われたのだと思うが、これを教育の現場で声を大にして言うのははばかられる。
しかし彼の本意は『いまさら努力しても始まらないよ」という事ではないのはその文章の雰囲気でわかる。
彼はもっと直接的に言いたかったに違いない。
しかし本音を言えば戦後の風潮(いわゆる進歩的文化人を中心とした民主的とされる傾向)に真っ向から刃向かうことになる。
そこまで事を構える気はなかったのではないかと私は推察する。
氏に同意する私がこれを意訳してみよう。
まず、「親が自営業」という点だ。
これは親が公務員や大会社のサラリーマンではなく、八百屋や魚屋、町の食堂などの商店、あるいは大工や町の鉄工所などの職人を想定していると思われる。
あるいは小企業のオーナーも含まれると思う。
こうした自営業の家庭では親が安定した組織に属している家庭と異なる点がある。
それは決まった収入が永続的に続く保証がない、という点だ。
お小遣いや家族旅行、その他あらゆる娯楽、楽しみが計画的に保障されない世界だ。
親の商売の景気が良い時はふんだんにお小遣いを貰えるかもしゃないが不況の時や倒産した時などは、お小遣いを貰えないレベルではすまない。
急に仕事が入って楽しい計画が直前にキャンセルされたり、約束を破られる事なんか日常茶飯事だ。
全ての決定権は親にある。と言うより収入の元である商売の浮き沈みで全てが決まる。
子供の権利だとか自主性とか話し合いで決めるなんて悠長な事は倒産するか否かの瀬戸際にあれば言っていられない。
そして、そういう環境で生活していれば子供もある程度の年齢になれば特に言われなくても感じ、理解してくる。
次に「兄弟が多い」という点。
これも言いたい事は同じだと思う。
兄弟が多ければ自分が上であろうと下であろうと自分のやりたい事が制限される。
上の子であれば、「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」とか、親が商売していたら弟や妹の世話を押し付けられる事もある。
仕事を手伝わされるのも上の子から始まる。
一方下の子はおやつの争奪戦ではまず勝ち目はない。
おもちゃにしろ最初に買ってもらえる事は殆どない。
おさがりが日常化する。
しかし、外でいじめられたら一番の味方はたぶんお兄ちゃんだ。
親戚にも子供が多いと、家族では一番上の子ももっと強力な、下の子もさらに小さくわがままな従兄妹がいたりする。
こうした環境の中の子供は自分の要求や希望がそのまま通る事はまずない。
約束が破られても、理不尽だと思われることがあっても、それをいちいちあげつらっても始まらない事を知っている。
その時は浅知恵の意見を持っていても結局は経験豊かな親や年長者の判断が正しかったという事を何度も体験する。
つまり、いやでもおうでも「我慢」しなければならない状況を数多く体験し、年長者の経験や知恵を体で感じていくのだ。
商売していたら親がいやな相手や理不尽な要求をする客にも頭を下げる場面も何度も見る事になるだろう。
それがどういう背景を持っているのかは子供には理解できない。
もし子供がそれに反抗したらゴツンと頭を叩かれるだけた。
やがて成長するにつけその時の意味が理解できるようになる。
養老氏は、当時の風潮の中で、経験もないのに小賢しく意見を言ったり、批判を行う若者に対し、言いたい事があったのだと思う。
私のような団塊世代も学生時代の小賢しさは半端ではなかった。
当時の学生運動を懐かしんだり自慢したりする輩が私の同世代にもいる。
馬鹿だと思う。恥ずかしいと思えよ同輩。
三番目の「お稽古事、伝統の武道・芸能」という点はもっと明確に氏の考えを表している。
伝統の武道・芸能は「黙って師匠の言う通りやれ」の世界だ。
自分の考えや意見を言えるのは免許皆伝を許されてからの事だ。
空手道場では「押忍」しか返事はない。
私はピアノ以外知らないが、他の芸能の世界でもそれは同じだろう。
日本だけではない。欧米でもアジアでも、職人や武術、芸能の世界では黙って師匠について行くことで伝統の継承が行われている。
考えてみればこれは武芸・芸能に限った事ではない。
数学でも物理でも、アルキメデスからガリレオ、ニュートン、アインシュタインまでまずは先人の成果、境地をトレースできなければ自分の意見も糞もない。
ニュートン力学も理解できないで現代科学を批判したり意見を言っている輩は本当に馬鹿だと思う。
出来ない人は自分のできないことを素直に認めなければ進歩はない。
出来る人から教わる場合は謙虚でなければ進歩はない。
何もできないうちから意見や主張を言わせる事を良い事だという戦後の風潮は多くの人から進歩を奪っている気がする。
話を元にもどす。
伸びる人は、黙ってついて来る人だ。
これは現在の教育環境では言うことはタブーに近い。
教育現場でこんなこと言ったらバッシングの嵐になる。
しかし、心の底ではこう思っている指導者は多い。
出来ないやつに限って文句が多い。
意見(文句)を言う事は良い事だという基本的な戦後の教えがこれを後押しする。
教育現場での親のクレームは物凄い。
現在は大学までターゲットになっている。
こういう事を言うと、「提案」することや「アイデア」を伝える事も否定されるのですか、といった反論を受けることがある。
結論から言うと申し訳ないが殆ど意味が無い。
本当に建設的な意見なら意味があるが大体クレームを言う者は、自分の自尊心や落ち度の言い訳、その他自分の我儘が根にあって一言で言えば面倒くさい。
伸びる人はこういったクレームはまず発しない。
過程において幾つかの不満や意見もあるだろうが、それより優先すべきやるべき事を認識しているからだ。
世に「名人」「達人」と言われる職人は概して偏屈な人が少なくない。
その言動をそのまま解せば理不尽な事も多い。
しかし、その名人から技を吸収しようと思えば、限られた時間でそんな事(理不尽)を指摘するより黙って教わる方がはるかに効率が良い。
弟子入りとはそういう事だ。
伸びる人に共通したもう一つの点は良く質問するということだ。
これは黙って着いて来ると矛盾するようだが実は全然違う。
質問には二種類ある。
建設的な質問と批判的な質問だ。
まず批判的な質問。
「なぜ、神前に礼をしなければならないのですか」
「なぜ押忍と言わなければならないのですか」
技術的なことだと
「なぜ引手を引く必要があるのですか」
「なぜいちいち気合いを入れなくてはいけないのですか」
「何のために三戦(サンチン)立ちで稽古するのですか」
これは質問ではない。
こういう事は無意味でないですかという批判を質問という形にしているだけだ。
では建設的な質問とは何だろう。
それは、
「自分は力を付けようとこんなトレーニングしているが半年やってもちっとも成果がでない。方法に誤りがあるのでしょうか」
とか、
「スピードを増すためにこういう方法を考えましたがこれは理に適っているでしょうか。」
といった自分を高めるための努力に無駄があるのか間違っていないかを確かめるような質問は建設的だ。
伸びない人は批判に終始し、伸びる人は建設的に意見を求める。
私は大学の講義では必ず質問を促す。
伸びる子は必ず建設的な質問をしてくる。
出席の良い者は成績も良い。
出席が良いということは黙って着いて来る事を意味する。
そしてもう一つ私は遅刻を許している。
どんなに遅れて来ても許す。
ただし一つ条件がある。
それは教室に入るとき私や全員に聞こえるように大きな声で「挨拶」することだ。
言い訳は必要ない。
電車が遅れたとか、何とかは言う必要はない。
理由はあったりなかったりするものだ。
それを屁理屈で正当化させても何の意味もない。
大きな声で皆に挨拶することは恥ずかしい。
この恥ずかしさの原因を作ったのは自分である。
ここで恥をさらすといった事が皆に許されるためのペナルティーなのだ。
これが現在の若者にはなかなかできない。
黙ってコッソリと入ってこようとする。
これは許さない。
遅刻して挨拶をして許され講義を受けた者で単位を落とした者はいない。
教えを乞うとはこういう事だ。
こういったちょっとした恥ずかしいペナルティーなどを反抗なく受け入れる素直さのある者は必ず伸びる。
会社でもできの悪い社員ほど文句が多い。
自分の成績の悪さは棚に上げて上司の悪口や組織の批判ばかりしている。
意見を言ってもそれは意見の形を取った批判や不満のはけ口でしかない。
伸びる社員は、黙って仕事をする。
物を言っても有言実行型が多い。
これはそんなに難しい事ではない。
空手で強くなっている人
仕事がうまくいっている人
自分を伸ばす原理は簡単だ。
●素直になる事。
●自分の非はすぐ認めること。
●批判の前に建設的に考える事
これだけで人生が劇的に変わる。
どうだ。
養老先生の説では今からではどうしようもないがこれなら今日から実行できる。
実は養老先生の説は本音はたぶんこれに近かったと思う。
(追) 2014/16/12
このコラムをアッフした後多くのメールをいただきました。
あたがとうございます。
多くの素晴らしいメールの中に特にユニークで心に響くものがありました。
休会中の会員、サカ坊からのものです。
彼は現在マスコミなどにも数多く取り上げられ躍進を続ける有名企業体のある事業部の営業責任者として活躍しています。
彼の我孫子道場での壮絶な10人組手は今でも語り草で昨年の忘年会ではプロジェクターで全試合を現会員に紹介したくらいです。
若い頃は暴走族で暴れまわっていた彼の現在のポジションは「伸びる人」そのものでもあります。
「伸びる人」を読み、久々に頭をガツンと殴られた気がしました。
で始まる彼からの長文メールには、過去から現在に至る遍歴や家族の事などが生き生きとつづられておりました。
その内容は例によってバイオレンス感にあふれており、一部ではありますが公開には適さない部分もあるため詳細は省きます。
彼が命がけで歩んできた過去から現在、そして家族を襲う試練の数々、それらを自助努力で克服し幸福を掴み、さらなる向上を目指し自己反省をする彼は「伸びる人」そのものです。
今回彼が何を反省したのかは問題ではありません。
新規事業開拓で全力で仕事に打ち込む彼が「ぬるま湯」に浸かったような部下や上司に持前の気性で歯がゆい思いを抱いているのも手に取るようにわかります。
彼は私の文章を見て、より檄を飛ばそうと思ったのではありません。
ぎゃくに「優しく」なろうと思ったのです。
さすがですね。
人は叱りつけても、怒鳴っても、いじめても向上するものではありません。
相手の事を本当に思う優しさがなければ全ての助言、叱咤激励、命令は生きたものにならないのです。
でもここで言う「優しさ」は自分も含めて皆が幸せになる道を選択するということで、甘い砂糖菓子のような優しさではありません。
「優しく」痛みを与えることもあります。
本当に相手を思いやったり、将来の事を考えたら、殴り倒す「優しさも」除外することはできません。
最後に追伸
彼の苦しい頃ずっと味方でありつづけたお姉さんの娘(姪っ子)さんが今年3月LAで行われたチアリーディングの世界大会に主将として参加し見事優勝されたそうです。
「先日最後の文化祭で会い、生まれた時の超未熟児であまりの小ささに驚い事を思い出し、号泣してしまいました」という彼の話を最後にご紹介いたします。