2009/09/26
現在、第二次世界大戦(大東亜戦争)を語るとき、必ずと言って良いほど付けられる形容詞がある。
それは「無謀な」である。
日本はある時道を踏み外して「無謀な」戦争に突入したという文脈は戦後無数に語られてきた。
そして現在も語られ続けている。
「無謀な戦争に突入したことが悪い」と。
これは何も、いわゆる左翼系の人たちばかりではない。
保守系やタカ派に属していると思われている人々でも語られることがある。
はじめに断っておくが私は戦争肯定論者でも否定論者でもない。
事実を脚色なく事実として受け止め、より良い平和な未来を築きたいと思っている。
「無謀」とはそもそもどういう意味だろう。
三省堂のウェブ辞書で調べると「深く考えずに行動すること」とある。
「謀」は「たぶらかす」「だます」ことで「謀略」といった使い方をする。
だから「無謀な戦争」とは「たぶらかし」たり「だまし」たりせずに、「単純に何も謀略を考えずに起こす戦争」ということになる。
しかし、日本が真珠湾を攻撃するにあたって、本当に「無謀」に攻撃したのであろうか。
それは常識的に考えてありえない。
事の善悪、巧拙は抜きにしても、少なくとも当時のあらゆる権謀術策を弄して起こした事は間違いない。
それでも100歩譲って、「無謀」であったとしよう。
では「無謀」でない戦争なら行って良かったのだろうか。
もっと緻密な計画をたて、相手をたぶらかし、政治的、文化的にも相手を叩きのめす周到な作戦をたてた「無謀」ではない戦争なら良かったのだろうか。
これは単なる揚げ足取りの議論ではない。
もっと直接的な表現もある。
「勝てない戦争」という表現だ。
「国力の差も考えないで勝てない戦争を起こした」などという文脈で使われる。
これも「勝てる戦争」だったら良かったのか、という話になる。
本当は双方にとって大きな悲劇を生む「戦争」という事態を何とか避けられなかったのか、と言うべき場面で、なんらかのエモーショナルな効果を狙って出される言葉なのであろう。
私はこういう姿勢は大変危険なものであると思う。
少なくとも、学術的あるいは歴史的な議論では「戦争」は「戦争」として語るべきであり、「無謀な戦争」「勝てない戦争」と言った感情的な形容詞は付けるべきではない。
そうでなければ「正義の戦争」「聖戦」と言ったプロパガンダを鵜呑みにする社会状況と少しも変わりがないではないか。
「無謀な戦争」という思想は、現代の日本ではあらゆる社会状況、精神文化において癌のように巣くっている。
先日ある強盗事件でテレビニュースの解説者が「ずさんな強盗」という表現をしていた。
「ずさん」は漢字で書くと「杜撰」だ。
語源は、中国宋の「杜黙(ともく)」という人物を表し、「撰」は詩文を作ることで、杜黙の作った詩はいい加減で誤りが多かったということに由来する。
つまり、「いい加減で深い考えのない」事をいう。
「ずさんな強盗」とは「深い考えのない強盗」ということになる。
これも、「深い考えを持った強盗」なら良いのかといった屁理屈もなりたつ。
強盗は強盗だけで立派な犯罪なので、これに「ずさん」という形容詞を付けたからといって強盗の悪さを強調したことにはならない。
むしろ同じ強盗に会うのなら、「緻密な計画の強盗」に会うより「ずさんな強盗」のほうがよっぽどましだ。
強盗や詐欺、汚職などの形容に悪さを強調する意味でこの「ずさん」という形容詞は絶対に使ってほしくない。
意味が逆になるのだ。
しかし、マスコミではこうした表現が頻発している。
「無謀な戦争」「ずさんな強盗」
この二つの表現は根は同じだ。
戦争も強盗もいやなものだ。
それは力によって自分の存在を脅かすものだからだ。
こうした外からの「力」で自分が抹殺されるかもしれない状況は誰しも受け入れがたいものである。
しかし、こうした状況は人類が存続している限り永遠に起こり得るし自分がそうした場面に直面する可能性は常にある。
このような状況を客観的な事実として受け止め、どうしたら脱することができるか、あるいは未然に防ぐことができるか、これを主体的に考えることが本当は必要なのだ。
しかし、これに「無謀な」とか「ずさんな」といった形容詞をつけることで、状況自体を卑小化し、自分の責任をこれに転嫁することで自尊心を守っているという極めて卑怯な方法論がまかり通っている。
自分で対処出来なかった事や失敗した時に、「あってはならない事」という一言で責任転嫁する輩がやたらと多いのもこの癌の影響だろう。