ヒット カウンタ

忘れられない思い出 蒙古の人に英語で講義

文部省からモンゴルの研修生にコンピュータソフトの講習をしていただけないかという打診を受けた。
まだロシアがソ連の頃である。

当時文部省の教育研究所で私が基本設計したデータベースソフトのμ
COSMOS(ミクロコスモス)を使っていただいていた関係で持ち込まれた話だった。
モンゴルはソビエト連邦の一員であったので公用語がロシア語だということにまずびっくりした。

日本とは正式の国交もない共産圏の国モンゴル共和国。

興味はあるが言葉はロシア語。

私は英語ならなんとかなるかもしれないがロシア語はまったく知識がないということを伝え話は宙に浮いたままになっていた。
しばらくして担当の方から連絡があり、出るはずだった奨学金だか補助金だかがダメになりこの話はボツになりましたという連絡があった。

やれやれ、と半ばほっとした気持ちでいた時、また連絡があった。
モンゴルの研修生は自費でも構わないから是非日本で勉強したいということで話が再浮上してきたというのである。

すごい意欲の研修生たちだ。
そして講義は英語でも構わないというのである。

そしてロシア語の通訳を付けるという。
私は研修生という響きからなんとなく若い学生を想像していたのだが、彼らの経歴を聞いてびっくりした。

全員工学系の大学または専門学校の教授、助教授クラスで年齢も
30歳から40歳くらいの人たちだった。
あの時成り行き上英語ならなんとかなるとは言ったのだが私は実際に英語で講義したことも一度もない。

専門職の方ならおわかりいただけると思うが、専門関係の本やマニュアルの英文は日常会話なんかできなくても読んで理解するのは大した苦労はいらない。
特にコンピュータ関係の用語は日本でもほとんどカタカナで元が英語なので読み書きは大して苦労しないのだ。

しかし、会話となると話は全然違う。
自信は全然なかったが私は結局引き受けることにした。

場所は赤坂の私の会社にセミナー用のフロアが丁度遊んでいた時期だったのでそこを使うことにした。
私は純粋に講義を引き受けたのであるが実は隠したもう一つの動機が別にあった。

モンゴルの人達に聞きたいことがあったからである。
それは元寇つまり鎌倉時代の蒙古の日本襲来を現在のモンゴルの人達はどういう風に理解しているのかを知りたかったのだ。

私は自分が福岡で生まれ育ち、当時の戦場を鳥瞰できる西公園という高台から福岡市と博多湾を見ながらいつも元寇に関して疑問に思っていたことがあった。
それはそれとして、共産国家であるモンゴル(当時)がチンギスカンをどのように評価し認識しているのかも知りたかった。

理科系の彼らには政治的な興味や特殊な意図はあまりないであろう、そしてエンジニア同士としての合理的かつ客観的な話ができるのではないかという期待もあった。
そしてついにその日がやってきた。

モンゴルの人達は外観は本当に日本人と似ている。

彼らと道ですれ違っても外国人とは多分気付かないであろう。

ただ蒙古相撲でもやっているのであろうか、皆大柄ではないが筋肉質のがっちりした体付きだった。
大変友好的かつ積極的な人達ですぐ打ち解けることができた。

ロシア語通訳の日本人の方はロシア語も英語もぺらぺらの秀才で大変良い方だったが、エンジニアではなかった。
つまりコンピュータ関係の用語は殆ど分からなかった。

モンゴルの人達は優秀なエンジニア、ロシア語堪能、でも英語苦手、まして日本語はまったく分からない。
通訳はロシア語堪能、英語堪能、でも専門用語苦手。

私 ロシア語全然だめ、英語かろうじて。
こういう
3すくみの状況で講義は行われることになったのである。

私は私の作ったデータベースソフトの基本理念および構造を説明した。
彼らはロシア語のキーボードには慣れていたけど英語のキーボードは初体験のようだった。

ただ、さすが大学で教鞭をとるだけのことはあって情報理論や数学の基礎知識は大変なもので、言葉が通じなくても数式や概念図(ブール図やフローチャート)を描けば概要はあっというまに理解してくれる。

エンジニアにはこういう万国共通語があるので本当に助かる。
会話はできなくても専門分野の講義だけであれば何とかなるのである。

さて私のもう一つの動機であるチンギスカンのことであるが。
こいつは難儀した。

彼らはおそらく日本の大学なら第
2外国語であるドイツ語やフランス語の感じで英語を勉強しているのであろう。
書いてもらえばわかるのだが喋られるとその癖のある発音でなかなか分からない。

もちろん私はネイティブの英語スピーカーに喋られてもなかなか分からないというかかえって分からないかもしれないのだが。
それでもなんとか話題をチンギスカンにもっていくことに成功した。

驚くべきことに(当時の)モンゴルでは学校などの公的な教育ではチンギスカンは殆ど教わらないらしいのだ。
銅像や記念碑なども彼らは見たことないと言っていた。

ただ、今までニコニコしていた彼らが急に真面目な顔つきになったことは私は感じ取ることができた。
政治的な会話になった場合はやはり何らかの圧力が彼らにはあるのだろうか。

残念ながらそうした状況を想定した微妙な会話をする語学力が私にはない。
X線の発見者として有名なキュリー夫人(マリア)の話を思い出した。

マリアは子供の頃大変優秀であったが、祖国ポーランドは当時ロシアの占領下であり、学校ではロシア語が公用語とされ、ポーランド語はその教育が禁止されていた、という話である。

マリアは成績優秀でロシア語もすぐ堪能になる。
教室にロシアの憲兵が来るとマリアは先生に指名され上手なロシア語を駆使して憲兵を喜ばせ、憲兵が立ち去った後悔しくて泣き崩れたという話を思い出した。

モンゴルの当時の政治情勢は私は残念ながら詳しくなかった。
ソビエト連邦が周辺の少数民族国家をどのように統治していたかという話はソビエト連邦が崩壊してから細かい情報が知られるようになったからである。

ただ共産主義は民族主義を嫌うというのは常識だから、民族主義の象徴にもなりかねないチンギスカンを否定することは想像できたが、その否定の程度は当時少なくとも私は知らなかった。

うすうすとは感じていたがそれはあくまで感じたことであり事実としての明確な知識では無かった。
彼らが公用語としてのロシア語をどのように感じているのかも知らなかったし聞けなかった。

彼らの真面目な顔は私の思い過ごしかもしれない。

食事を近くの焼肉店でとった時、ビールも入って、いろんな冗談もでるようになった。私は思い切って再度チンギスカンの話題を持ち出した。
もちろんお互い苦手な英語なので微妙な言い回しはできないので聞く方も答える方もストレートにならざるを得ない。

でも今考えるとこれがもってまわった中身のない会話にならずに率直な意思疎通に役立ったのかもしれない。
一番年長で英語が一番上手な大学教授が今度はいろいろ語ってくれた。

私「なぜ、チンギスカンを学校で教えないのか」
彼「教えないわけではない」

私「教わるけれどあなたが望む形では教わらないということか」
彼「わからない」

私「私の質問の意味がわからないのか」
彼「そうではない」

私「あなたはチンギスカンの事を知っているのか」
彼「もちろん知っている」

私「モンゴルが日本をアタックしたことは知っているか」
彼「知っている・・・・・」

私「あなた以外のモンゴルの人も皆知っているのか」
彼「皆知っている」

私「チンギスカンは公に認められているのか」
彼「そうではない」

私「チンギスカンはタブーなのか」
彼「・・・・・・」

だいぶニュアンスが分かってきた。
日本で戦前では英雄だった乃木将軍や東郷元帥が戦後ではある種タブー視されているのと似ているのかなと思った。

最後に私は彼に聞いた。
「あなた(ユー)は現在チンギスカンをどう思っているか」

彼ははっきりと答えた。
「ウィ ラブ チンギスハーン」

彼の答えの主語は「私」ではなく「我々は」であった。

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