ヒット カウンタ

目的を持った者は全てに耐えることができる   


最近世間一般では小さなトラブルが多くなったようだ。
私自身が巻き込まれることは殆どないのだが、そのての話をよく聞くようになった。

ときどきメールで相談をうけることもある。
電車の中でヘッドフォンから漏れてくる音がうるさくて注意したら逆にからまれてしまった、とか駐車禁止の場所で車を止めようとしている運転手さんに注意したら殴られたとか。

こういった場合どうしたらよいのでしょうかといった相談だ。
昔に比べると注意された者が逆に怒り出すというケースが増えたのかもしれない。

無法者が傍若無人に振舞う現場に居合わせたら、これを注意したり諌めるのも正しい行動であるし勇気があるのも認めるのだが、相手が素直に言うことを聞かなければ事態がますます悪くなることも想像される。
最悪の場合刃物などを振り回されて大きな事件になることもあり得る。

まあ、誰かがまさに殴られようとしているとか、不心得者が乱暴狼藉の限りをつくしているという現場であれば看過できないというのもわかるが、ちょっとした騒音とかタクシーの列に割り込むといった程度の小悪であれば、そんなに神経質にとがめだてすることもないのではないか。

私は自分自身が騒音にはわりと寛大なところがあるので(音に鈍感というわけでは決してない)多少その点は割り引いて聞いてほしいのであるが、現代人は他人の発する音に敏感になりすぎてはいないだろうか。

現空研では毎年夏に合宿を行う。
最近は数人づつ個室で寝ることが多くなったが、初期の頃は全員が広間で雑魚寝だった。

現空研には日本一いびきの大きな
OKさんと二番目に大きなOEさんがいる。
この二人のいびきで寝られなかったという者が毎年多数いたのだ。

私はこの二人のいびきを知ってはいるがこれで寝られないといった経験はない。
しかし、他人のいびきで寝られないというという話は良く聞いた。

隣家のピアノの音が原因の殺人事件なども記憶にある。
音が気になって寝られないとか、不快だという思いはそれが気になる人にとっては大問題であるのだろう。

もちろん、いびきや隣家のへたなピアノに限らず、電車の中の音楽や携帯電話の声も爽快であるはずはない。
誰もが「うるせーな」と思っているに違いないのだ。

ただ、問題はその程度である。
耐えられないほどうるさいのか、殺してやりたい程の騒音なのか。

ここが問題である。
私は、人間は音そのものに対してはけっこう耐久力があると思っている。

長く戦乱が続いている場所では子供たちは耳をつんざく爆弾の音の中でも熟睡している。
子供だけでなく大人もだ。慣れているのだ。

自宅兼用の町工場で働いている社長にとって、昼夜をとわず騒音を撒き散らす機械の音は心地よい子守唄のようだろう。
昨今のような不景気で夜になればシーンとなった工場では多分熟睡はできないだろう。

レストランやその他の公共的な場所で子供がさわぐ音がうるさいという話も最近良く聞く。
私が子供の頃はレストランなんてしゃれたものは都会に行かなければ無かったが、近くの食堂は炭鉱労働者が昼間から騒いでいるし、テレビで力道山のプロレス中継なんか始まればうるさいなんていう程度じゃなかった。

それでも子供は一日10回以上大人から「うるさい」と怒鳴られていたけどな。
わたしは初めて都会のレストランや公共施設に入ったときその異様な静けさにビックリしたものだ。

音楽会や映画館もそうだ。
田舎のどさまわりの芝居小屋の騒々しさとはまったくかけ離れている。

どちらが正常なのかは知らない。
ただ、こういう静寂の世界が正常だというすりこみを受けた人には騒音というものが耐えがたい拷問になるのだろうということは想像できる。

私とてレストランで子供がさわだり、電車の中でヘットフォンからシャシャカ音を出すのが決して良い事だとは思わない。
私だって「ウルセー」と感ずる事はある。

でも、君がもし若者であったら、こういう状況(ウルセーといった)はまず無視したらいいのじゃないかな。
この不快な状況は君の人生を変えるほどのものかね。

誰かの生活を破壊するほどの事件かね。
目的を持った者は全てに耐えることができると思う。

この目的は高校生や浪人生であれば大学や専門学校あるいは就職であろう。
あるいは特別の資格試験や特殊技能の獲得かもしれない。
ボクシングの世界チャンピオンかもしれない。

明確な目的を持った者は、それ以外のことは大きな関心をよせないものだ。
レストランで子供がさわいでいても電車の中で携帯電話でしゃべるアホがいても殆ど気にならないものだ。

若い頃喧嘩ばかりしていた者も空手をやり、初段、2段と上達するにつれ喧嘩はしなくなっていくものだ。
よりレベルの高い目的や目標ができれば、そんなレベルの低いゴタゴタは関心がなくなるからだ。

若者はまず、明確な人生の目的を持つことだ。
自分の適性と本当に生涯をかける価値のあることを見つけることだ。

それは最終目的でなくとも良い。
大それたものでなくてよい。

そして現時点での考えで良い。
私も目標は何度か変わった。

しかし、常に明確な目標は持つようにしている。
明確な目的を持つ者がつまらないトラブルは気にならないという例を考えてみよう。

例えば、君の親友が大事故で瀕死の重傷を負ったとする。
彼の命を助けるには緊急の輸血が必要である。

しかし、彼は特殊な血液型で通常はなかなか十分な量を得ることができない。
でも、君がたまたまその血液型の持ち主だったとしよう。

彼の命を助けるには君が一刻も早く彼が入院している病院へ駆けつけることだ。
君は、あらん限りの知恵を絞って最短時間で病院へ駆けつける方法を探すだろう。

そして実行する。
仮にその最良の方法が山の手線に乗ることだったとしよう。

たまたま、乗った電車で君の前にヘッドフォンからシャカシャ音を出すアホが居たとする。
近くには土足で座席に上るガキがいたとする。大声で携帯電話でしゃべる高校生がいたとする。

これが気になるかね。
おそらくこんなものは目にも入らないだろう。

君は時計を見ながらひたすら友人の安否だけを考えているだろう。
君には現在一刻も早く友人の病院へ行かなければならないという明確な目的があるからだ。

では、このとき電車の中のアホが君にからんできたとする。
「このやろう足踏みやがったな」

君はそいつの足を踏んだ覚えはない。しかし相手はそれを主張する。
「このやろう謝れよ」

君は謝るようなことをした覚えはない。もしかしたら無意識で踏んだのかもしれない。
でも多分踏んではいない。

ここで君にとって、一番大切なことは何か。
足を踏んだかどうか真実を究明することだろうか。

もし踏んだのなら謝らなければならないが、踏んでいなければ謝る必要はない、なんて主張することだろうか。
足を踏んでいようがいまいがそんなことはどうでも良い事ではないのかな。

君にとって一番大事なことは、ここでこんなアホとかかわって無駄な時間を浪費しないことなのだ。
謝ってすむのなら謝ればよい。

逃げられれば逃げても良し。君には友人の命を助けるという明確な目標がある。
このように大きな明確な目的があれば人は全てに耐えることができる。

では、目的があれば世間の小さな不正義は全て見逃して良いということか。
これは違う。

上記の例のように一刻を争うような状況であればこうした判断になるのであるが、何らかの形で注意をしたり、アクションを起こさなければならないこともある。

相手の無神経な行動のためこちらが何らかの障害をうけるケースだ。
こういったケースでは何らかの関わりを持たざるをえない。

こうした場合も、大切なことは命にかかわるようなことでなければ思いやりを持った言葉で話かけることだ。

いきなり、
「オイ、お前邪魔だ。どけ」

と言われるのと
「申し訳ないがちょっと道を開けてもらえないだろうか」

と言われるのでは受け取る方も感じが違う。
特に相手に悪意は無いのであるが結果的に大いなる迷惑を回りに与えているケースなんかそうである。

最初は丁寧にやさしくお願いする。
悪意でない場合は殆どこの段階で解決する。

それでもふさわしい行動にでない場合にはもう少し強い口調になってもしようがない。
でもたいていは前の段階で解決するよ。

こちらに十分なやさしさがあれば。

私の家の前は丁度隣のお寺の木の陰となるので夏はよくタクシーやトラックが駐車して運転手さんが仮眠をする。
もちろんここは駐車禁止の場所で私の家の車庫前なので私は車の出し入れができなくなる。

当然、何がしかの注意をしなければならない。
私は車の窓をノックして、

「まことにお休みのところ申し訳ないのですが、ここに駐車されると車の出し入れに支障が出ますので・・・・・・・・」

と、この程度のお願いで殆どの人はピューと走り去って行くぞ。

トップページへ