2016/01/26
空手の技は全て目的がある。
その目的は一つ、相手を倒す事だ。
もともと武道というのは自分を守るために相手を倒すための技法を習得するということが原点だ。
いろいろ綺麗事で口当たりの良い修飾がされることが多いが、原点は強さの追及だ。
しかし、近年欧米のスポーツとしての格闘技との融合で様々なヒズミが生じている。
一番の元凶はオリンピックの現状に見られるポピュリズムを背景とした商業主義だ。
柔道も、オリンピック競技になってから武道としての柔道から大きく変貌している。
あの古代オリンピック発祥の頃からある伝統のレスリングでさえ観客動員数その他の商業的観点からオリンピックからはずされようとしている。
観客を増やすため女子選手にビキニスタイルを取らせるなんて案も取りざたされる始末だ。
そういえばビーチバレーなる競技は女子選手のパンツのサイズが規定されているいうことを最近知った。(露出度が大きくないとダメらしい)
これを道徳的な見地から批判する気持ちは毛頭ない。
商業主義なら商業主義で本当にこれが実効的だと判断すれば選択肢の一つだろう。
しかし、その場合は変なスポーツ精神やアマチュアリズムの建前論は出さないで欲しい。
「金儲けのためです。」、「視聴率を上げるためです。」と正々堂々と言えよ。
空手がオリンピック種目になるか否かは正直あまり関心がない。
昔から私は競技としての空手にはあまり興味がない。
現空研が追及しているのはあくまで武道としての空手である。
しかし、その一環として競技に関心を示す会員が居ても、その気持ちは理解できるし尊重もする。
だから現空研も大会を開くし、会員は他の大会に出場することも自由だ。
良い成績を上げれば評価もする。
他流派との交流も積極的に行っているしルールの違う大会に出場させる事もある。
空手だけでなく、キックボクシングや他の格闘技大会にもオープンだ。
勝てば皆で喜ぶが負けても非難しない。
武道としての自分が強くなるヒントを得られればスポーツとしての大会での勝敗なんて小さな出来事だからだ。
全ては武道として強くなるという目的に沿っていれば良い。
と、ここまでは今までいろんな場面で私が主張してきた事だ。
今日はここから少し話を発展させ「美しさ」について考えてみたい。
美しさの原点はどこにあるのだろうか。
陸上競技で100mを疾走する一流選手たちは皆美しい。
極限まで鍛え込まれた脚力、その他の身体能力を使い切って走り抜ける姿は有無を言わさぬ美がある。
陸上だけではない。
競泳でもスキーでも、テニスでも。
最も速く走る(あるいは勝つ)、その事だけを目的として体や精神を鍛え、技術を磨く。
技術も長い歴史の中で多くの失敗を重ねがら進化論的に生き残った方法が更に工夫やトライを重ねがら成長を続ける。
そして、我々はその成果としての競技を見る時に感動を覚える。
それは、「美しい」という表現になる。
だから、この美しさは固定されたものではない。
常により以上のものを求めて切磋琢磨していく過程の、現時点での最高のものを見た時人々は最高の「美しさ」を感ずる。
ところがこの「美しさ」を妙に誤解しているむきがある。
例えばスキージャンプの飛型点。
こんなもの不要だ。
距離だけで争えば良い。
もちろん、安全性その他の理由づけは山ほど聞いている。
だったら走り幅飛や棒高飛にも飛型点があっても良いだろう。
V字ジャンプの出始めの頃、このスタイルは恰好が悪いということで飛型点で大きく減点された。
そのため昔は距離は稼げても得点が上がらなかった。
スキーを揃えた方が開くより「美しい」といった固定概念がこうしたルールを作っている。
採点性を取り入れている競技は多かれ少なかれこうした問題をはらんでいる。
この問題の原点は、「美しさ」とはいったい何なのかという視点がぼやけていることに起因する。
美しさの本質は目的を達するための最良の手段を極限まで追い詰めた時生まれると私は考える。
F1のレーシングカーは美しい。
あれは美しくしようと思ってデザインしたものではない。
最も速く走るために追及したデザインに我々が「美しさ」を感ずる。
例えは悪いかもしれないが武器もそうだ。
戦闘機や銃や戦車はその目的はさておいても、純粋にその合目的的な「美しさ」がある。
武道の試合も達人同士のものは美しい。
それは、互いに「美しさ」を目的として追及した結果ではない。
相手を倒すというただそれだけの目的のため体力、知力、技術の粋を凝らした者同士がせめぎ合う中に我々は「美しさ」を感ずる。
繰り返すが美しさは固定されない。
より、合理的な方法や手段が考案されたり発見されれば美しさもそれに沿って進化していく。
昔のスポーツの映像を見た時そのスタイルや所作に何となく「おかしさ」を感じたりするのはこのためだ。
より合理的な方法を知っている我々には歴史的な意義や功績には敬意を表しつつも、もはやそれはそれほど「美しさ」は感じないのだ。
しかし古くても美しいものはいくらでもある。
例えば帆船だ。
現在の最新型の船舶と比べても「美しさ」では引けを取らない。
これも矛盾ではない。
帆船は風のみを利用して走るという規則の中では最も合理的に進化した結果であり、その技術は現在でも決して陳腐化していないからだ。
風のみを動力として利用し、かつて誰もが思いつかなかった方法が発見されればそれを実現させた船を見た時我々は必ずより「美しさ」を感ずるだろう。
「美しさ」というものは目的ではなく結果なのだ。
美しい蹴りが強いのではない。強い蹴りが美しいのだ。