三宅雪子衆議院議員の転倒問題

2010/05/22


三宅雪子衆議院議員の転倒問題がネットで炎上している。
知らない人は少ないは思うが、空手以外には関心の無い方もいると思うので、あらすじを記す。

5月12日の衆院内閣委員会で民主党の三宅雪子議員が自民党の甘利議員から突き飛ばされて転倒したと主張して、翌日車椅子や松葉杖を使って国会に登院したという事件だ。
13日には国会内で松葉杖姿で再度転倒したり、同僚議員におんぶされた姿もニュースで放映された。

自民党と民主党の攻防の中での些細な(私から見れば)事件を互いにというか今回は民主党が積極的に利用しようとして騒ぎになったのが真相だろう。
国家公務員法で民主党が強行採決しそうだというので自民党も引き伸ばし作戦に出、一方民主党も応援議員を借り出して防戦に出たその小競り合いの中での出来事だ。

ユーチューブなどでスローモーションの動画が出てから大騒ぎとなっている。
民主党議員が「許せない暴力行為だ」と言ってこの事件を利用しょうとしている空気が感じられるからだろう。

私は三宅雪子議員の人となりを知らない。
感想のソースはテレビで繰り返し放映される映像やネットの動画と解説だけだ。

第一印象は、「なんて大げさな人だ」だ。
押されたのが直接かあるいは間接的であったかは良く分からないが、立ち位置からは随分離れた所までダイブしている。

こうした第一印象はあの動画を見ると殆どの人が感ずるわけで、ネットで「芝居」だとか「自作自演」だと批評を受けている原因になっている。
確かにそう感じさせる説得力のあるシーンが現実としてある。

一般論として非暴力を訴える団体が相手を挑発して先に相手に手を出させ、それを撮影して暴力の証拠写真として闘争の材料にするというのはもはや古典的とさえ言える戦術だ。
逆に暴力団やチンピラも良くこの手を使う。

我々の子供の頃九州の炭鉱地帯では、子供でもミニ暴力団のようなヤカラがいて、いろいろ難癖をつけて喧嘩をしかけてきた。
その常套手段は相手に先に手を出させるという戦術だ。

子供でも大人顔負けのテクニックを彼らは持っていた。
一番効果のある方法は肉親の悪口を言う方法だ。

「おまえの母ちゃん○○○○○○」とか「おまえの姉ちゃん○○○○やろ」と挑発する。
○○○の部分は年齢によって変わってくるが大体「性」にまつわる汚い言葉を使う。

サッカー選手のジダンが暴力事件を起こしたのも相手が姉に対してこうした暴言を吐いたことが原因と言われている。
自分への悪口なら大抵ガマンできる強い子でも、母親や姉をこうした汚い言葉で罵られるとガマンの限界を超えて挑発に乗ってしまうことが多い。

喧嘩の手打ちはどちらが先に手を出したかで落とし前が決まってしまうのを巧みに利用する悪いやつらの定番の方法なのだ。
先生や警察につかまっても必ず「どちらが最初に手を出したか」と聞かれるのだから。

その時「母親のことを○○○○」と言われたからとはなかなか言い出せないのだ。
当時の社会情勢は○○○○の部分がウソでない子もいたから。

私は子供の頃からこういった現場をいやというほど見てきたから、どうしても「先に手を出された」「いきなり暴力をふるわれた」という発言に対しては慎重になる傾向がある。

三宅雪子議員の話に戻るが、この人をネットのオフィシャルページで見てみると石田博英元大臣のお孫さんだ。
チンピラなどとは程遠い方のようだ。

こんなお嬢さんがチンピラの高等(?)な喧嘩テクニックを持っているとも思えない。
あのダイビンクの距離はちょっと不思議な気もするがおそらく転倒したのは自作とかではなく本当だろう。

普通であれば回りの数人が例え自分で押してなくても「大丈夫ですかスミマセン」とか言い、三宅雪子議員も「あーびっくりした、でも大丈夫です」とか言って終わる程度の事だろう。
しかし、そこはたまたま強行採決する側とそれを阻止したい側の論戦の場だったのでこういう流れになったに違いない。

本人はその後歩いて帰ったらしいし、エレベータの中で「自分で転んじゃって、恥ずかしい」という発言をしたという話もある(本人否定)
翌日の車椅子や松葉杖は本人の意思とは思いにくい。

ここで言いたい事は三宅雪子議員の糾弾ではない。
こうした行動、もっと平たく言えば作戦の有効性や効果の話だ。

例えばあなたがある団体員で闘争しているとき相手団体の誰かから暴力とは言えないような偶発的な接触を受け転倒したとする。
あなた自身は大した事ないは思っていたのだが、上層部から絶好のチャンスだから相手から暴力を振るわれた事にしろと言われたとする。

診断書や車椅子はこちらで用意するからちょっと大げさに振舞ってくれ。
あなたはこちらの団体の主張することは正しいと信じている。

しかし、この件に関してはどうも納得がいかない。
こういった状況は社会人なら誰もが経験していると思う。

三宅雪子議員の肩を持つわけではないが、彼女の立場や状況を考えると真相は「自分で転んじゃって、恥ずかしい」が全てではないだろうか。
問題は上層部の戦略である。
これも上層部を非難するのが目的ではない事はあらかじめお断りしておく。

国会も議員にとっては戦いの場である。
戦いは勝たなければ意味がない。

戦いの目的は勝利なのだから。
あらゆる戦いにはルールがある。(例え戦争でも)

勝利はそのルールに従って勝たなければ勝ったことにはならない。
民主主義では当然暴力はルール違反になる。

相手がルール違反をしていればそれを糾弾して勝ちにいくのはごくごく普通のことである。
ルール違反を見逃すという事を繰り返せば相手はこちらをなめてくるかもしれない。
(現在日本は国際的には相手のルール違反に対して極めて弱腰でなめられている。)

かといって些細なルール違反を鬼の首でも取ったように大騒ぎすることが真の勝利を得ることにつながるだろうか。
以前格闘技のK-1の決勝戦でボンヤスキー対バダハリの試合があった。

バダハリが倒れた相手の頭を踏んだということで試合が中断。
最初イエローカードで1点減点が宣せられ5分間の休息が与えられた。

この時点での角田審判の判断は、頭を踏んだとは言え、致命的なダメージを与える程の事はなく、プロ格闘家の興行である事も考慮してこの程度のペナルティーで公平だと判断したものと思われる。
しかし、ボンヤスキーは5分経過しても「物が二重に見える」とか言ってコーナーから立ち上がらない。

結果としてバダハリの反則負けで、戦わずして優勝した。
この時も多くの格闘家からボンヤスキーの仮病とか演技とかブーインクの嵐となった。

私の印象もあれでそれほどのダメージを受けたとは思えなかった。
その前にもらったパンチの方がはるかにダメージとしては強かったと思う。

まあ、うまくルールを利用して勝ったなという印象だ。
空手でも伝統系の試合では良く当てられた選手が昏倒する。

これで伝統系の突きは威力があると思うのは早計だ。
全てが演技とは言わないが、当てるのは禁止だが仮に当てられたとしたら倒れた場合は逆にこちらが減点というルールだったら昏倒者は激減すると思う。

倒れれば勝てるというルールが本人は意識しなくても当てられたら倒れるという見えない力になっていることは否めない。
昔、金的を当てても良いというルールの組手を見たことがあるが、普段の試合では金的に当られたら皆大げさに痛がるのに、その試合では誰一人金的に当てられて痛がる人はいなかったしダウンする人もいなかった。

サーカーの試合でも、わずかな接触でよく派手に転ぶ。転ばされてもペナルティーを得られないルールだったらあんなに簡単には転ばないだろう。
しかし、こうした選手が皆演技かと言ったらそうではないと思う。
スポーツマンシップあふれる選手でも転びそうに成ったとき転んだ方が有利かいなかでギリギリの所で無意識の判断が働くことはごく自然なことだ。

この問題はルールに対する根本的な考え方、大げさに言えばルールをとらえる哲学の領域になる。
ルールさえ守れば勝つためには手段を選ばない。

こうした考えが戦後の主流になっている。
ルール、契約第一主義の西洋流の考えだ。

やっていけない事といい事の境界をはっきりさせるのがルールだ。
だから問題が起きるたびにルールは段々細かく成っていく。

作戦としてルールの抜け道を探す行為も出てくる。
私はこうした考えは嫌いだが、自分の考え以外も認めるという立場であれば、互いを尊重しながら最低限の約束事としてのルールの整備は大切な事で、それは「ルールさえ守れば何をしても良いだろう」という考えや方法論にも耐え得るものでなければならない。

 

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