2009/03/19
私の母校修猷館の大先輩に三輪寿壮(ミワジュソウ)という方がおられた。
どのくらい大先輩かというと大正3年の卒業の方だ。
修猷館には菁莪という同窓会誌がある。
今年の1ページ目が三輪寿壮の伝説と題されたこれまた昭和29年卒の大先輩山田龍蹊氏の随想で三輪寿壮先輩が紹介されていた。(上の写真もそこから拝借したもの)
私はこのお二人の名をそこで初めて知ったのだが、その内容は大変面白くまた考えさせられるものであった。
三輪寿壮という方は中学修猷館をトップクラスで卒業し、一高、東大へ進学した秀才であったが、一方柔道も大変強く修猷館柔道部百年史に名を連ねると同時に講道館の会報にも名を残す程の腕だった。
山田氏の記述によると、
背の高い三輪は、一高に進学して独自の柔道技「三輪投げ」を編み出す。
相手を右前隅に崩しながら、その間に自分の半身を入れて屈むようにして、強引に相手を宙に一転させつつ、前方に引っ張り落とす豪快な荒技で、講道館の会報にも記録されている。
三輪の柔道が一高でピークの頃、伝統を受け継ぐ三つ下の柔道部の後輩たちが第一回九州学生武道大会(通称福日大会、後の金鷲旗)で優勝し修猷柔道は大正時代の黄金期を迎える。
とある。
相当の腕であったことが分かる。
戦前から戦中にかけては私の母方の祖父(当時九州帝国大学医学部教授)も柔道が強く、修猷館柔道部にもよく教えに行っていたという話を祖母から聞いたことがあるので同じ頃に同じ道場で顔を合わせていたかもしれない。
しかし、面白いのはこれからである。
彼は当時の社会的な風潮(大正デモクラシーの真っ只中)の中で弁護士として野に下り(今じゃこんな表現にはならないか)社会主義運動に身を投じるのである。
修猷館は質実剛健、文武両道の九州男児の意気高い学校ではあるが、その自由な校風から思想的にも右から左まで大変幅広くそれが横のつながりを奥深いものにしている。
それにしても戦後の日本社会党の幹部として活躍する程というのはちょっと珍しい。
先日、NHKでドラマ化された「戦後の東京裁判で唯一文官でありながら死刑に処せられた元内閣総理大臣」広田 弘毅も修猷館の先輩なのだが彼をはじめ修猷館の卒業生はどちらかといえば国を支える側での活躍が多いからだ。
私の修猷館時代の親友高崎も若くしてこの世を去ったが、柔道部で活躍し、東大の医学部進学には失敗したが東京医科歯科大学(当時二期校)には現役で合格した。
彼も文武両道の秀才だったが、大学では左翼思想にかぶれて私とは会うたびに激論になった。
その彼を柔道から空手に転向させたのは私である。
思想はいつも真っ向からぶつかったのだが武道に関しては素直に私の意見を取り入れる男だった。
今回三輪寿壮大先輩の話を読んでいて最初に頭に浮かんだのがこの親友高崎だった。
高崎とは思想的にはどうしても合意には至らなかったが、彼は人間としては大変魅力的な男で、私の結婚式のスピーチで、「周りに影響を与えずにはおかない男」と私をほめた。
影響を与えられたのは自分だということで喧嘩相手の私を持ち上げてくれたのだが、互いに大いなる影響を与え、そして受けたのは事実である。
私は真の友情はイデオロギーや宗教、国籍を超えるものだと思う。
人間としての信頼、尊厳、誇りはそういった皮相的な規範よりもっと奥の方にある人間性に共感できるかどうかで決まるからだ。
三輪寿壮にしても、彼が亡くなったときには多くの人が参列した。
その中でも特筆すべきは東大で同期だった岸信介の弔辞にそれを見ることができる。
岸信介はその後総理大臣になり、日米安全保障条約をめぐって左翼との激突を繰り返す筋金入りの保守主義者なのだ。
その彼の言葉はこうであった。
「立場は違え僕は君にかぎりなき人間的信頼を寄せていた」(山田龍蹊氏)
今の政治家に、与党、野党を問わずこうした魅力を感ずる男は少ない。
大先輩三輪寿壮のような骨太の人間を育てる伝統的な日本文化があらゆる面で衰退しているのがその根本原因である。
現空研はこうした現代社会の風潮には一切流されず本来の武道精神を伝えていく場にしたいと思っている。