ヒット カウンタ

まくらことば


何かの用件や伝えたいことがあって話始めてもなかなか本題に入れない人がいる。

確かに借金を頼んだり、結婚の申し込みをするなどといった事は、いきなり本題から入ることは余程の豪傑か無神経でないとできないとは思うが、何ということのない簡単なことや定型的な報告の類のものでも、長々と前置きの部分を語らずして本題に入ることのできない人だ。

組織や国家などの将来を左右するような会議や話し合いの場での交渉なら、いろいろ作戦やテクニックもあってわざと結論を出さずに話を長引かせるといったこともあるだろうが、日常のどうでも良いようなことで、結論を後回しにしてウダウダ前置きから長い話をされると忙しい身でなくともイライラしてくる。

結論を先に言わないのは、なるべく自分の身を安全なところにおきたいという心理があるからだ。
非難されそうな箇所を予め言い訳しておいて被害を最小限に食い止めようとする根性だ。

「怒らないで聞いてね」なんてまくらことばを必ず付けるやつがいる。
怒るか怒らないかは話の内容で決まるのであって、「怒らないで聞いてね」なんて前もって言われるとそれだけで怒りたくなる。
自分の喜怒哀楽の選択権までも相手に譲らなければならない道理はない。

かといって「お前にいい物やる」なんて言っていきなり「痔の薬」なんか差し出されてもいい気持ちにはならない。(※私は痔ではない)
やはり礼儀としての最低限の前置きはあってしかるべきである。

「君には不必要かもしれないけど、最近こういったいい物を見つけてね」とか前置きがあれば、「痔の薬」の話も大変ありがたい気持ちで受け入れることができるのである。
(※私は痔ではない)

しかし、前置きはやはり簡潔に越したことはない。
社用の文章なんかは、やはり定型的な決まりがあるので、それに従うのはコミニケーションをスムーズにするポイントにはなる。

面倒と言えば面倒なのだけど、定型を覚えてしまえば、いつもそれを頭に付けるだけで最低限のマナーを守れるのである意味簡潔になる。
例えば「拝啓 貴社ますますご清栄の事とお喜び申し上げます。いつも格別のお引き立てを頂きまことにありがとうございます。・・・・・・・」
なんていうやつだ。

「ますますご清栄」の事を「お喜び」しつつ「格別のお引き立て」をいつも「頂く」相手なんて、そうそういるわけではない。
昨今の不況のおり、ご清栄をお喜び申し上げる会社がどれほどあるのか、いつも厳しいコストダウンを迫られている取引先のどこが「格別のお引き立て」なのか、なんて考えながら文章を書いている奴なんかいない。

これは、もはや用件を言う前のまくらことばとしての儀式であり、最低限の礼儀は守りたいというお互いのエールの交換式なのだ。
これで良い。
言う方も聞く方も、それを互いに知っているので、このエールの交換は一瞬で終わり、こころおきなく本題に入れるのである。

しかし、たまにはこういった定型文でない前置きで傑作なものもある。
2,3日前に現空研の会員からメールをもらった。

この長々とした前置きと本題。
しかもこのメールを何と「公開可能」としたアドレスに送ってきたので、ここに公開することにする。

現空研の○○です。いつも素晴らしい教えをいただきありがとうございます。飲み会での度々の無礼誠に申し訳なく存じます。メールにて失礼な上に、時期遅れも甚だしいのですが、なんと今更年賀状として替えさせて頂こうという暴挙を奉りたく思います。と申しますのも、私自身見ての通りなんとも適当極まりない人生を過ごしてきたため、誠に恥ずかしい話こういった礼節に大変無関心になっておりました故、年賀状もここ何年も誰にも送っていないという状況になっておりまして、このままでは私の人生人様に顔向けの出来ないものになってしまうのではないかと思い立ち、ここで一念発起私の人生唯一とも言える礼節を賜れる状況にある「空手」と、その師に対してそれを実行しようと思ったのですが、それからずるずると忙しいを言い訳に、このような時期にまでなってしまいました。恥ずかしげもなく今更このような形でこのようなこんなものを送らせていただくことお許しください。

あけまして おめでとうございます
今年もよろしく お願いします

 

これだけ長い前置きの年賀状をもらったのは私の長い人生でも初めてのことだ。

またいつものように酔っ払って書いたに違いないのだが、このろれつの回らない中にも何か真摯なものを感じないわけではない。

たまには、こうした定型外の「まくらことば」を聞くのも新鮮なものがある。


○○君、精進しろよ。

トップページへ