ヒット カウンタ

負け戦の戦い方


相手が自分より体力、技とも上回っており、とても勝ち目はないと分かっていても戦わなければならない、という状況は武道だけでなく、他のスポーツやあるいは、仕事、勉強といった分野でもあるし、殆どの人は何からかの形で体験しているであろう。

つまり、負けることがほぼ確定的であるにもかかわらず戦わなければならないという大変つらい立場である。
今回は、この負け戦の戦い方について考えてみたい。

私は、歴史が好きで、歴史を題材にした小説はわりと読むほうだ。
また映画も、その映画の主題よりも時代考証とかその映画が作られた時代背景のほうに興味を持つことが多い。

ところで歴史を題材にした小説や映画はほとんど戦争を背景にしている。
名作と言われるものはどういうわけかこの戦争が「負け戦」のものが多い。

トルストイの「戦争と平和」や映画「風とともにさりぬ」「誰がために鐘はなる」といった大作も主人公や準主人公たちは大体負ける側の軍隊で戦っている。
勝ち戦というのは、どうしても安っぽい西部劇のようになったり、子供向けのアニメのようになりやすいからであろうか。

それもあるかもしれないが、負け戦というものは、人はそれに直面したときどうしてもその人の人間性というか全人格的なものを前面に出さざるをえないからではなかろうか。
作家にとって、勝ち戦よりも負け戦の方が人間性を出しやすいのだと思う。

これは、何もこうした大作のヒーロー、ヒロインではない我々とて同じである。
子供の頃の喧嘩を思い出してもらいたい。

子供の頃、ちょっと悪ぶったりしていた者は大抵自分より強い者との喧嘩の思い出があると思う。
そんなに悪い子でなくとも、いじめっ子やクラスの不良たちに無理難題をふっかけられた経験のひとつや二つはあるだろう。

その時のことを思い出してみて欲しい。
子供にとって、その時点では人生最大の難関にぶつかった瞬間のできごとを。

誇らしく語れる事や、思い出したくもない苦い思い出や様々であろう。
その時のどんな態度で、どんな気持ちで自分を奮い立たせその困難に立ち向かったか。

それがおそらく大人になった今のあなたの原点だと思う。
「負け戦」というのはその人の人格をすべて表に出してしまう。

「負け戦」はつらいものである。
肉体的にも精神的にも大きな傷を負うことは間違いない。

だれも好きで負ける者はいない。
勝ちたいのだ。

勝つためにはその時点では最高の知恵と力を出しきって、ベストの戦いをしなければならない。
それでも負ける事があるのだ、負ける相手がいるのだ。

人は「負け戦」を経験しながら大人になっていく。
しかし、世の中には勝つための方法論はあらゆる分野で氾濫している。

武道やスポーツは言うに及ばず、受験勉強やあらゆる資格試験、人間関係から恋愛まで。
本屋でハウツー物のタイトルをざっと眺めてもわかる。

一方「負け戦」の戦い方というのは殆ど見ることがない。
まあ、これは当然と言えば当然である。

負けると分かっていて戦うなんてのは不合理の極であって、そんな馬鹿な事やめろよ、で終わってしまうのが普通の考えだからだ。
しかし、私は人間は大人であっても、長い人生のなかでは負けると分かっていても戦わなければならない状況というのは意外に多いような気がする。

もちろんここで言う戦いというのは、いわゆる腕づくの暴力ざたばかりを指しているわけではない。
勉強や仕事その他社会生活の中での全ての戦いにおいてだ。

負けると分かっている戦いに臨む場合、その人の人生観や生き方が具体的な形となって現れる。
武道とはもともと、防衛のための方法を追及したものである。

護身術という考えがそれを最も端的に表している。
この考えの基礎になっているのは「負け戦」である。

つまり、通常では勝てない相手の攻撃から身を守るという暗黙の前提がここにはある。
極論すれば、武道とは「負け戦」の戦い方を追及する道であるのだ。

私は「負け戦」の戦い方を考えることは武道を追求するためには避けてはならない道だと思っている。
「負ける」ということから目をそらすことなく、正面から取り組む事によって、自分を自分以上でも自分以下でもない実像として自覚することが可能になる。

そして、逆説的ではあるが「負け戦」の戦い方を考えることが、結果的には簡単には負けない精神を創造していくことにつながっていくと思っている。

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