この連休に久しぶりに図書館を訪れた。
たまにはオペラのCDでも借りてみようと思ったのだ。
もともとは、最近話題の映画ロードオブザリングがきっかけだった。
子供が借りてきたDVDを観て、これは根元はワーグナーのニーベルングの指輪と同じだなーと思い、久々にワーグナーでも聴いてみようかという気持ちになったのだ。
適当なCDも見つかったのだが、時間があったので他のコーナーも見てみた。
邦楽のコーナーを覗いたのだが極端に数が少ない。
比較的多いのは落語だろうか。
浪曲なんかは殆どない。
無いとなると急に聴いてみたくなるという私の天邪鬼が目を覚ました。
それで係りの人にコンピュータで在庫を検索してもらうと、広沢虎造のものがいくつかピックアップされた。
結局2代目広沢虎造の「忠治二人」を借りることにした。
この「忠治二人」は私は国定忠治の中では最も好きなものの一つである。
ご存知ない方のためにあらすじを少し紹介しておこう。
国定忠治は民百姓のため悪代官に歯向かい赤城の山に立てこもる。
誰でも知っている「赤城の子守唄」は忠治を裏切った勘助を追い、彼を切った甥の浅太郎が、勘助の遺児・勘太郎を背負って忠次の待つ赤城山に帰る途中の名場面である。
実は勘助は本当は忠治を裏切ったのではなく忠治を逃がすための芝居を打っていたのだ。
それを知った忠治の勘太郎を不憫に思う心情がこの「忠治二人」のバックボーンになっている。
物語は赤城山を追われた忠治が幼い勘太郎と子分を引き連れて、昔追いはぎに殺されそうになった親子(安左ヱ門と娘お小夜)を助け、今は裕福になった商人安左ヱ門の屋敷に一夜の宿を頼むために訪ねるところから始まる。
この善良な親子に暖かいもてなしを受けたところ、そこに押し込み強盗が入ってくるのだ。
隣の部屋で耳を澄まして聞いてみると、なんとその強盗は国定忠治を名乗っている。
しかも、ご丁寧なことに有名な子分衆もすべて揃っているのが可笑しい。
この偽忠治と子分どもが切る啖呵が今回のメインテーマになるのだが、先にあらすじを述べてしまおう。
偽忠治一家は、安左ヱ門から千両箱を3つ奪って逃走する。
忠治はその偽忠治が実は自分の妻を殺した「鬼の大八」ということを知る。
屋敷を汚すことを嫌った忠治一家は、屋敷を抜け出し、離れた場所で「鬼の大八」と子分どもを全員切り捨てる。
そしてその3千両を取り返して安左ヱ門に返すのである。
安左ヱ門は感謝するが、この3千両は受け取れないという。
逃走資金の足しにしてくれというわけだ。
一方忠治もなかなか受け取らない。
しかし、とうとう千両だけ受け取るということにした。
そして忠治は最後に一つの願いを安左ヱ門に言うことになる。
いつお縄になるか分からない自分に代わって幼い勘太郎を預かってくれと頼むのだ。
その時の口上が、
「つきましては旦那、今いただいた千両は、勘太郎が成長のあかつき、商いの元手にしていただきたい、それまでどうぞ預かっておくんなせえ」
こうして終盤の盛り上がりとともに「丁度時間となりました」と来るのだ。
浪曲の面白さはこうした人情の機微を軽妙に語る口上にあるのだが、こうした「ヤクザ」を題材にしたものには必ず喧嘩のシーンが登場する。
この喧嘩の啖呵が「いかにも」といった感じなのだがいろんな意味で面白い。
喧嘩の啖呵というのは、相手が恐がってくれなくては意味がない。
恐がらせるには自分を強く見せなければならない。
何をどういう風に言えば強そうに見えるかというのが啖呵のポイントになるわけだ。
この「忠治二人」にも喧嘩の啖呵が登場する。
特に、この偽忠治一家の啖呵は面白く、滑稽である。
まず、忠治の子分衆だが、有名な「イタワリの浅太郎」がいる。
これは癒し系の「労りの浅太郎」ではなく「板割の浅太郎」なのである。
これなんか正に空手の試割をそのまんま名前にしたようなものだ。
「オレは板割浅太郎、ガキの時から力があって、拳固で松板を割ったんたぞ。オレはテメエーの頭を割っちゃうぞ」
その他
「オレは国定一家の三ツ木の文蔵というナァー、真庭念流の使い手だ」
といった剣術の流派名を言う奴。
そして、空手を直接口に出すやつもいる。
「やい、オレは清水の雁鉄、空手の名人だ」
空手が江戸時代に登場するのもいろいろクエスチョンがあるのだが、大体明治以降空手が小説、講談に登場するシーンはだいたいこういった悪人の専売特許になっている。
典型は柔道小説の「姿三四郎」に登場する悪役空手使いなのだが、こうした浪曲のしかも国定忠治にも登場しているのは知らない人も多いのではなかろうか。
空手がどうしても悪役のイメージが強いのは、こうした意識しないところでもさりげなく悪人の口上なんかで利用されていて日本人全体に一種のサブリミナル(潜在意識)効果として影響を与えているのかも知れない。
逆に考えれば、こうした啖呵に使われる程空手というものが恐れられていたとも取れる。
良し悪しは別にして考えれば、それだけ空手の威力が暗黙の内に認められていたという証拠でもあるだろ。
しかし空手の威力は認めるが、それの使い手は胡散臭い奴が多いといったところに落し所があるのが我々空手家としては大変残念なところだ。
空手は本来護身のための武道であり、理不尽な暴力から身を守るための手段であるという原点をもっと多くの人に知ってもらわねばならない。
そのためには我々空手家が本来の理念を十分に理解し、その精神を空手を志す後輩にしっかりと伝えなくてはならない。
2代目広沢虎造の名調子に浸りながらもふと思ったことであった。