ヒット カウンタ

組手で強くなるということ


初心者の段階から脱したレベルの人たちにとって、組手で強くなりたいと思うのは当たり前のことです。
私もかつてそうであったように、「強い」ということは「組手で強い」ということに等しい考えてしまうからです。

まず組手で相手を制したい。この欲求は大変なものがあります。
多くの初心者の組手を見ていますと、目的は強くなりたいと皆思っているのに、結果的には逆の努力を行っているケースがほとんどです。

なぜ、強くなりたいと思って組手を行うのに強くなれないのでしょうか。
逆の努力とはいったい何なのでしょうか。

この答えを言う前に、まず次のことを考えて下さい。
貴方を松田君とします。ほとんど同時に入門した竹田君や梅田君がいるとします。

古くからいる先輩には勝てなくても、同期の竹田君や梅田君には負けたくありません。
もし、梅田君と組手を行うとしたら、たとえ稽古試合であっても技あり一つ取られたくないどころか、ポイントにもならないような軽い突き蹴りもかすらせたくもありません。

負けたくない、勝ちたいという気持ちでいっぱいになります。
こういった気持ちは格闘技を自ら志すレベルの人間なら自然な感情です。

しかし、これが上達を妨げる。
まず、梅田君にある試合でたまたま負けたとします。

くやしくてたまりません。
あなたは梅田君の癖(弱点)を必死で探します。彼はたまたま先天的に左足が弱かったとします。

あなたは、次ぎの試合でその左足をねらって下段の蹴りを入れます。
そして勝ちました。

それがどんな意味がありますか。
今日道場でたまたま梅田君に勝ったとしても、帰りにチンピラに襲われたとき勝てる保証にはなりません。

空手はゲームではありません。武道です。
武道というのは究極的には「生死をかけた戦い」という仮定のもとで創造されたものです。

稽古というのはこの「生死をかけた戦い」で不覚をとらないために、前もって鍛練を行うことを言うのです。
鍛練のほんの一部として組手があります。

組手は「生死をかけた戦い」のできの悪いシミュレーションです。
なぜできが悪いかと言うと、「生死をかける」ということを安全に疑似体験させようとする無理があるからです。

忠実に再現したら危なくて、それこそ命がいくつあっても足りません。
そのため便宜上、寸止めにしたり、防具をつけたり、攻撃部位を限定してフルコンタクトにしたりして、危険を防止しているのです。

そのような不完全のシミュレーションの中で勝敗にこだわること事態が無意味なのです。
勝敗にこだわる心が生み出す弊害の例をあげると、

例えば防具をつけた組手を行うとします。たまたま、出来の良くない審判が、突きでも蹴りでも防具にあたった音の大きさで一本あるいは技ありをとったとします。

そうすると、この条件(この審判のもと)で勝負に勝つには大きな音を出す必要があります。
本来はもし防具がなかったら相手にもっとも大きなダメージをあたえる突きあるいは蹴りを出すように努力すべきです。

それが、大きな音に目的が変わってしまいます。
いくら大きな音がしても効かなければ暴漢は倒れてくれません。

もう一つ例をあげます。
フルコンタクトで試合をしているとします。普通フルコンタクトのルールでは顔面への突きは禁止されます。

そうすると顔面への突きを考慮した構えや動作は、無駄になります。
というより、そのルール内でも最適の防御体制をとった方が勝敗上有利なります。

このように会得した技術でその場の試合に勝ったとして、武道追求者として何の意味がありますか。
このようにルールを利用したり、審判の受けを考えて試合することを初心者のうちに覚えてしまうと、のびる技術も伸びなくなってしまいます。

努力の方向を間違ってはいけません。
勝つための努力はしないことです。

強くなるための努力をしなければいけません。
強くなるための努力と勝つための努力は違います。

例えば、打たれ強い肉体に鍛えるというのは、強くなるための一つのステップです。
そのためには腹筋やその他の筋肉を鍛えたりする必要がありますが、何といっても実際に打たれるということも必要です。

打たれることは試合では負けることを意味しますが、強くなるためには大変重要なステップです。
ましてや道場の稽古試合です。勝負なんか意味ありません。

今日は打たれる稽古、蹴られる稽古があって良いのです。(※)
「強い」ということは空手では「圧倒的に強い」ことでなければなりません。

強い人というのは立ち会う前からわかります。
その人がすごく控えめな人であっても実際組手をするとほんの一瞬で相手の実力のレベルはわかるものです。

そして、圧倒的に強いなと感ずるあるいは感じさせることが強いという本当の意味なのです。
その強さは、決められたルールの上でポイントを取りあうレベルのものではありません。

命のやり取りをしたらかなわないなと感ずる絶対的な強さです。
絶対的な強さを目標として努力する。

組手はその目的を達成するための沢山の手段の中のほんの一つにしかすぎません。
そんな小さな手段のなかで勝負にこだわる気持ちというのはつまらない考えです。

私自身はこのような絶対的強さには程遠いレベルですが、勝負にこだわらないで、強さを追求するという姿勢を持ちながら努力し、また皆に理解してもらおうとがんばっているところです。

(※ 注意)

打たれる、蹴られるという稽古は必ずこういった原理を理解している上級者あるいは相互に理解しあっている人と行う必要があります。(最初は防具を付けて行うべきです)
どの程度の突きや蹴りが、初心者にどのようなダメージをあたえるのかということが良く分かっている人でないと行けません。
別の意図を持ったシゴキやイジメなどを稽古とか訓練と称して行うケースが稀に存在するからです。

 

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