ヒット カウンタ

人は全ての年代でその年代の初心者だ


最近50歳代の方が入門された。
武道の経験は全く無いそうだ。

最近仕事でも遊びでも昔のような気力が無くなってきたのが気になる、このままずるずる行くのがいやで、ここで一発気合をいれるために空手を始めようと思った、というのがその動機だそうだ。

たまたま、入門された翌週が新年会だったので、入門後新年会参加期間の最短記録保持者になられた。
そこでの自己紹介でこのような話をされた。

りっぱな動機である。
若い頃の動機は喧嘩に強くなりたいというのが最も多いが、年代が高くなるにつれて、関心が自分そのものに向いてくる傾向がある。

格闘技というのはどこか男の本能をくすぐるところがあって、特に喧嘩が好きというわけではなくても一度はやって見たかったという男性は多い。
若い頃にそういった気持ちがあったけれど、受験などでなかなかやれなかった。

就職すると仕事が忙しくて道場なんか行く暇もない。
そうこうするうちにだんだん年をとってきて今更といった気持であきらめてしまう。

こういう人は意外に多い。
次に多いパターンは、学生時代など若い頃空手をやっていたけど、就職や結婚でとおざかり、いつか再開しようと思っているうちにづるづると年月が経ってしまった、というケースだ。

こちらは経験者なので基本的な技などは身につけているけど、なにせ長いことご無沙汰しているので体力に自信が持てないといった感覚を持たれる方が多い。

私も、同窓会などで、昔は柔道や空手の猛者でならした同級生からいろいろ質問されることもある。
年代に応じた空手というものがあるのか、といった命題がまず提起される。

私の回答はYESでもあるしNOでもある。
年相応といっても、個人の体力や技術また、健康状態などは千差万別であり、それを一くくりにして、40歳代の空手はこう、50歳台の空手はこうあるべきだなどとはとても言えない。

「無理をしない」という言葉は、高齢者のエクササイズにおいては殆ど枕詞のように言われることであるが、「無理をしない」は何も高齢者の専売特許ではない。
若い人でも、無理をすることは良くない。

問題は、「無理をしない」という言葉を主観的に解釈して、怠けたり、怠惰な感情の言い訳に使うことである。
「無理をしない」の正しい解釈はオーバートレーニングにならないようにする、ということだ。

鍛えるということは一時的に体を痛めつけることだ。
そして、それが回復する十分な時間をとる。

回復すればまた痛めつける。
これを繰り返すことを「鍛える」と言う。

オーバートレーニングしないということは、大雑把に言って二つの要素に分けて考えることができる。
一つは一時的に体を痛めつけるときに、限界を超えた痛めつけを行わないということだ。

回復可能な範囲で痛めつけを行わなければならない。
「しごき」は鍛錬にとって有効な事が多いが、「しごき」という言葉を隠れ蓑にした虐待などが行われるケースもある。

これは、指導者的立場の者は最も自戒しなければならない点である。
十分な合理的な理由と知識と実績を背景にした「しごき」であれば行うことに意味はある。

一方、しごかれる側の主観は、必ずしも合理的な理由とは合致しない。
十分意味のある鍛錬でも、主観的にはいじめられていると感ずる軽薄な者もいるであろう。

いづれにせよ重要なことは痛めつけが回復可能な範囲で行われているかという一点。
もう一つの要素は回復に必要かつ十分な時間をとっているかということ。

長い間運動らしきものをしなかった者が急にトレーニングを行うと、それが大してハードなものでなくとも、筋肉その他の器官に結構大きなダメージを残す。
このダメージをまず十分な期間を与えて回復させなければならない。

筋肉のトレーニングは1日やって2日休養するのが良いとか、その他いろいろうろ覚えの教科書的な知識でうんちくをたれる人がいるが、人はその資質や環境、これまでの積み重ねで条件は千差万別である。
教条主義的になるのはある意味危険ですらある。

「痛み」というのはきわめて主観的であるので、「痛い」から即オーバートレーニングであるとは必ずしも言い切れない。
自分で自分の感覚が大げさであるのか控えめであるのかということも計測不能である。

しかし、痛みの絶対値は計測不能であってもその変化あるいは変化率は自覚可能である。
つまり、痛みが増し続けるという状況はオーバートレーニングであると考えてまず間違いない。

痛みが増し続けているのに数ヶ月あるいは数年も同じトレーニングを続けるというのは明らかにオーバートレーニングである。
オーバートレーニングはプロの格闘技者やアスリートには多く見られる現象であるが、一般の人では極めて稀である。

したがって多少でも自分が怠け者であるという自覚がある者にとっては無用の心配と考えてまず間違いないだろう。
一昔前までは、オーバートレーニングに陥りがちな指導をする先生やコーチが多かったが、最近はその反動で鍛えることに消極的な指導者が増えている。

もちろん適切な負荷というのは本人が目標とするレベルによっても異なる。
目標とするレベルというより、現状維持ではなく向上をめざすのか、そうではないのかということが重要だ。

私は、やるからには向上を目指すというのを年齢を問わず掲げてもらいたいと思っている。
向上のスピードは問わない。

ゆっくりであっても良い。
しかし、現在を生涯の最高の状態であると自覚できるように努力することが目標であって欲しい。

そこで、当たり前のことではあるが皆案外自覚していない一つの盲点をここで指摘しておきたい。
それは、人は皆自分の年齢の初心者であるということだ。

20歳になった若者が成人式を向かえ、大人の仲間入りをする。
全ての大人は自分が20歳になった時のことを覚えているだろう。

殆どの人は自分が大人になったという実感がわかなかったはずだ。
社会人に初めてなった時だって多分同じだろう。

気分は学生時代と少しも変わっていない。
子供の頃考えていた、大人や社会人とはかけ離れた自分を自覚したはずだ。

子供の頃は大人が全てベテランに見える。
20歳の大人は20歳のベテランにみえるのだ。

しかし、実際は20歳の人は皆生まれて初めて20歳になったのであり、そしてその経験は皆1年未満なのだ。
つまり20歳の初心者なのだ。

それは30歳になった時も同じであり40歳でも同じてある。
70歳でも80歳でも皆その年齢の人はその年齢の初心者なのだ。

100歳の人は100年前から100歳だったわけではない。
今年初めて100歳になった100歳の一年生なのだ。

つまり人は自分の年齢に慣れる前に次の年齢になってしまう。
そして人生は一回限りである。

全ての人は生涯自分の人生の初心者である。
初心者であるから、こうすれば良いという確信を持てるはずもない。

向上心を常に持って人生にチャレンジしていくしかないのである。
おそらく思い違いや失敗もあるであろう。

しかし、チャレンジしないことにはあらゆる可能性は陽の目を見ることなく終わってしまう。
年代に応じた空手というものはきっとあるだろう。

しかし私は知らない。
私も自分の年代の初心者だからだ。

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