空手の直接の目的は護身です。護身の術を獲得するということは、すなわち自己防衛力を高めるということです。
自己防衛力というものは、どの程度あれば十分という尺度はありません。どんなに強い人でもこれで絶対大丈夫という限度はないのです。
かといって、こんな程度ではものの役には立たないという最低レベルの評価も実際にはむずかしいです。
ただ、今まで自分が長年空手をいっしょに稽古したり教えた多くの人から次のような言葉を聞くことができます。
空手をやり始めて人と争うことが少なくなった。
原因はいろいろ考えられます。
実際実力行使を行って、相手が打ちのめされたことが原因で争いが少なくなったのでしょうか。
そんな例は殆どありません。
おそらくは、
というよなことが原因だと思います。
でも、争いが減るということはその人の人生にとっては大変な宝物です。
この宝物は、子供のころから空手を稽古してきた人には逆に実感として捉えにくいものがあります。
逆に、中高年から空手を始めた人には皆、強烈な自覚として感じるようです。
男の強さといったものを表立って表現したり、それを肯定することがある種罪悪のように言われがちな現在の風潮は、社会の小さな摩擦やいざこざに対しての当事者同士の抑止力をどこに求めてよいのかわからないのが実状です。
例えば、飲み屋でのささいないざこざでも、第三者が仲裁に入るのですら難しいです。ましてや軽い実力行使を伴った抑止など大変な覚悟がいります。
つまり、現在は誰でもが共通に持っていたはずの行動規範とか正義といった概念がものすごく希薄なのです。
全ての価値は相対化されていて、一見ありふれた喧嘩といえども、当事者しかわからない理由によって争われていたり、安直な正義感で仲裁しても、とんでもないリアクションがあったりして、あぶなくて関われないのです。
争い事には関わり合いたくないというより関わり合うのが難しいというのが現在の風潮の正しい見方です。
これは、自分が一旦暴力を被ったり、被害者になった場合、通りすがりの回りの誰も助けてくれないことを意味します。
重ねて言いますが、助けてあげたくても、助けるのが難しいのです。
数年前の事件です。夜の繁華街で女性が酔っ払いに絡まれている現場に通りかかった空手青年が、酔っ払いにやめるように忠告しました。酔っ払いは止めるどころか青年に殴りかかってきました。
青年は回し蹴りで酔っ払いを倒してしまいました。
この結果どうなったと思いますか。
正当防衛で無罪。
いや正当防衛にしてはやりすぎで過剰防衛か。
いや、どちらでもありません。
この酔っ払いは女性の恋人で、痴話喧嘩の真っ最中だったのです。
青年は二人から告訴されることになります。
こういった話は山のようにあります。
人は簡単に困っている(ように見える)人を助けられなくなったのです。いきおい人は無関心(を装う)になります。
無関心な人の集団というのは、中で発生した小さなトラブルを解消する自浄原理のない集団です。
多くのいじめやストーカー犯罪といったものの本質的な原因はここにあります。
社会にこのようなトラブルを自浄する原理がないのです。
いろんな意味で自分で自分を守るしかない社会になりつつあります。
空手を習得することで争いが減るということは個人レベルで考えれば、最初に述べたような現象だと、思いますが、こういう個人が増えることで集団の中に本来の意味での正義とか規範といったものが醸成されてくれば、これが社会全体の自浄原理として大きな力となります。
これが、個人からみても社会からみても大変有意義な空手の効能だということが言えます。
そして、この効能こそ言葉を代えれば武道の意義であり、めざすものでもあるのです。