私(園田)は高校生のころ英語が大変苦手で(現在でも決して得手ではないが)、何かにつけ学校の強制的な補習授業などを受けさせられた。
もともと、こんなものをまじめに受けるような生徒ではなかったが、ある授業だけはまじめに受けた。
それは、教材にETICS FOR YOUNG PEOPLE(若人の倫理)という題名のついた本を与えられた補習だった。
この古臭い題名に当初興味のかけらもわかなかったが、いやいやながらも精読するうちに、何となく一種異様な雰囲気を感じてどんどん引き込まれていった。
戦後民主主義の真っ只中の教育環境で育った私は他の同級生と同じように、今思うと何か大切なものが欠落していた価値観になんの疑いももってなかったと思う。
そうした当時の(今でも大差ない)社会的空気のなかで、まずびっくりしたのが、そのコンテンツだ。
Fortitude,Courage,Heroism,Ambition,Self-respect,Self-control,Obedience,Good-Temper
と続く。
英語だとそれほどピンとこないが、日本語で書くと
剛毅、勇敢、勇壮、覇気、自尊、自制、服従、堪忍となる。
そして、Home(家庭)、School(学校)、Patriotism(愛国心)としめくくられるのだ。
当時の道徳教育や倫理の時間でも決して語られることのなかった、ある意味ではタブーに近い言葉ガンガンならぶ。
これが最初の一種異様な雰囲気として感じられたことだったのだ。
授業の目的は英文の解読なので、内容自体にはなんの目的性もなかったが、私は英語そのものよりこの内容が気になってしょうがなかった。
文章はきわめて明快、単刀直入で、現在の日本の評論家のようにどこからも攻撃をうけないような持って回った言い方は一切ない。
しかし、適切な喩と安定感のある論理構築で説得力はきわめて高い。
例えば、勇壮(Heroism)という章のなかで次ぎのような文章がある。
Fighting is not generally a good things.
これは日本語で「暴力をふるうことは良くないことです」
と言うのとはニュアンスがまるで違う。
この文脈でのファイティングという言葉は今上品な訳語を思い付かないが最もニュアンスの近いものは「喧嘩」だろう。
こうした言葉は、現在の日本では、良識的とされている文章の中では使うことさえほとんどタブーになっている。
この文の意味することはこうだ。
「喧嘩はいつもはよくねえよ」
もっと意訳すると。
「やんなきゃいけねえ喧嘩もあるよ」
but if a boy fight let it be for some good cause such as I have named; for the protection of the weak and for the safety of the suffering,rather than in quarrel about some personal matter.
「男の子のけんかは、自分でなくて弱いものを守るためのものでなくちゃね。」
Such fighting is in the spirit of the heroes whose deep we so much admire.
これも、今の日本の精神構造から意訳するのがむずかしい。
まず、英雄がいなければならず。
この英雄は我々(皆)が感嘆し、それを認めることはあたりまえという前提が必要だ。
そして、
「こんな喧嘩なら、気概はあの英雄たちと同じだよ」
という最大限の誉め言葉になるわけだ。
この本の著者はCarles Carrol Everett(1820-1900) というアメリカ人でハーバード大学の神学教授を務めた人だそうだ。
アメリカの少年たちはこういった教科書で育ってきた。
いまあらためて読み返してみると、きわめて当たり前のことがなんのてらいもなくサラリと述べてある。
人間として正しく生きるための大人の知恵や経験を子供たちに伝えている。
たとえば少年にとって(実は大人にとっても)喧嘩は大きな問題である。
しかし、戦後の日本は、「暴力反対」という金科玉条で、全ての喧嘩は、みそもくそもいっしょに処断されてしまう。
Fighting is bad things.
というわけだ。
最初にこう言ってしまうと
but if
は無くなってしまう。
こうしたのっぺりとした金科玉条の建前の下、現実は陰湿ないじめや悪質な暴力が水面下で多発していく。
日本では正義感溢れる男の子も、性根の腐ったチンピラも、もし喧嘩をしたら、暴力的な人間として喧嘩両成敗で一刀両断されてしまう。
そして、当事者で話し合って解決しろという。
話し合いに応ぜず、力で無理を押し付けてくるのが暴力だ。
その暴力に話し合いで解決しろ、というのは、崖から落ちてくる石に向かって「侵入禁止の標識が立っていますよ」と叫ぶのと同じだ。
大学生のころ左翼運動に走っていた友人と議論したことがある。
「ソ連にもこじきがいるそうではないか。」
「共産主義では原理的に乞食は存在しない。」
「でも現実にはいるじゃないか」
「原理的に存在しないものは存在できないから存在してないのだ。」
実際には乞食がいるどころの話ではなかったことは歴史が証明した。
教条的なお題目で問題が解決すると思ったら大間違いだ。
ETHICS FOR YOUNG PEOPLEは、教条的な原理本でも、宗教の布教本でもない。
基本的に弱くて易きにながれやすい子供たちに、ちょっとした助言をしていくための本だ。
朝、寒くてなかなかベッドから出られない少年に、そこにいるための口実を百ならべるより、勇気をもって飛び出しなさい、と言っている本なのだ。
戦後の日本の教育というより、思想全体の間違いの根はここにある。
こういう本を子供のころから読んでいるアメリカの男の子に今の日本の男の子はなかなか勝てないだろうね。いろんな意味で。
今のままじゃ。