ユダヤ教に詳しい故山本七平氏の言葉だったと思う。
あるとき子供は目を輝かせて言う。
「パパ僕すごいもの発見したよ」
子供は一刻を争うように父親の手を引いてそれを見せようとする。
「ホラあそこを見て!」
子供が指差した空には立派な満月が浮かんでいた。
「ね、すごいもの発見したでしょう。あれ見つけたのは僕なんだよ」
子供の言葉に嘘はない。
子供は自分の発見に驚き、そしてそれを最初に父親に報告したかったのだ。
確かに大空に浮かんだ月はすごいものだし、感動するのは当然の事だ。
しかし、子供は自分以外の殆どの大人や場合によっては子供でさえそんな物は皆知っていたという事には気付いていない。
それは、微笑ましい事であり、子供の可愛さとはこういうところにある。
「本当にすごいね、でもあれは月というもので、パパはずっと前から知っていたよ」
子供は少しがっかりするけど、その後月のもっと詳しい話を聞くうちに本当に興味をもって将来天文学者になるかも知れない。
子供にとって月の発見はあくまで自分にとっての月の発見であり、今まで自分が知らなかっただけの話である。
実はこれは子供に限った事ではなく、我々大人も日常小さな「月の発見」はしょっちゅう行っている。
ただ、大人はこの発見は多分自分にとっての発見であり、多くの人は既に知っていることであろう、という想像力がある。
いままで自分に知識が無かっただけの話だと悟る謙虚さを持つ者が大人だ。
ただ、時々大人であるにもかかわらず「月を発見した」ということを得意げに言う人がいる。
「月を発見した」というのは子供が言えば可愛いのだが大人がこれを言うのを聞き流すのは正直つらいものがある。
大人で「月を発見した」と言う者を愚者という。
半径10m以内の出来事だけで一般論を語る者は愚者である。
一方体験してもいない事や頭で考えた事だけで物を言うものは妄想家であって、これは「100の理屈より1の実践」で詳しく論じた。
では体験した事であればそこで発見した事は全て真理であるかというとそれはとんでもない話だというのが今回のテーマだ。
愚者は経験に学び 賢者は歴史に学ぶ
という言葉がある。
自分が体験したり経験した事はあくまで自分の体験談であり経験談であり、それはそれで大変貴重な事実であるがそれ以上でもそれ以下でもない。
一回女にふられただけで、「そもそも女なんてのは・・・」というように自分のふがいなさを棚にあげて話を一般論にするやつを愚者という。
話を一般化するには多くの実例がなければならない。
自分の周りのわずかな日本人の行動を見て「そもそも日本人は・・・」なんて話をしている外人をみると笑止であろう。
逆に観光旅行に毛の生えた程度の体験で外国を論ずる日本人とて同じである。
話を空手に絞ってみよう。
空手の稽古を行っている者が100人居れば、そこには100の体験談がある。
個人個人は、指導者や先輩の教えに従い、そして実践した自分の稽古と得た結果を確認しながら進歩していく。
自主的なトレーニングで得た結果をフィードバックし、何らかの個人的な工夫をする事で更なる結果を生む。
思うような結果が得られなければ、人は憂鬱になり、予想以上の成果があった場合は人は大抵有頂天になる。
自分の体験はなによりメッセージとしては強烈なので、この体験は深く記憶として刻み込まれる。
特に成功した場合は「月を発見した」気分になる事もある。
しかし、個人の体験はしょせん「半径10m以内のできごと」だと自覚しなければならない。
自分の成功例ははそのまま他人にもあてはまるとはかぎらないのだ。
もちろん失敗例も。
話を一般化するには多くの実例がいる。
実例を多く知る(体感する)という事が普段の稽古の積み重ねであり、鍛錬とも言う。
人は100人居ればその身体能力、考え方全て100人100様だ。
うさぎと亀のたとえ話ではないがうさぎ型の人もいれば亀型の人もいる。
どちらが良いか、という話は今回のテーマではない。
亀にはうさぎの個人的体験談は参考にならないという話だ。
かと言って亀には亀の体験談が常に有意義だという事にもならない。
亀の体験談は途中で昼寝をしてくれる稀なうさぎにのみ有効な方法論でしかないからだ。
重ねて言う。
個人の体験談は貴重ではあるし傾聴に値するものであるが、それ以上でもそれ以下でもない。
一方歴史とは無数の体験談の壮大な集合体だとみる事ができる。
歴史に学ぶとは、半径10m内の体験だけで生きている自分の「月の発見」は謙虚に評価し、まず先人の知恵を十分消化して自分を磨くという意味だと思う。
日々の努力を積み重ね、自分および他人の個人的な体験は軽視はしないがそれだけにとらわれず、伝えられた先人の知恵(歴史、伝統)を尊重しながら己の空手を追及するという姿勢でありたい。
そういう人は本当に自分だけの月を発見するかもしれない。
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