最近、子供の名を呼び捨てにする指導者が増えている。
もちろん自分の子のことではない。
自分の子の呼び捨ては当たり前というか、逆にそうでないと気持ちが悪い。
問題は、他人の子供のケースだ。
野球やサッカーのチームでコーチが平気で子供を呼び捨てにする。
「山田!」とか「田中!」といった「姓」の呼び捨てはまだわかる。
不愉快に感ずるのは「名」の方だ。「ケンスケ!」とか「ショウタ!」とか小さな子を乱暴に呼び捨てにしている状況は、一瞬手が出そうになるほど不快感を感ずる事がある。
我が子のように扱っていると言えばそれなりの理屈も通るのであるが、自宅に引き取って我が子同然の暮らしをしているのならともかく、単なるコーチや指導者が他人の子供を軽々しく呼び捨てにする行為は私は良い印象を受けない。
こういった学外の活動だけではなく、小学校などでも先生がファーストネームを呼び捨てにしているケースは珍しくない。
私が一番嫌悪感を感ずるのは若い男の先生が女の子をファーストネームで呼び捨てにしているケースだ。
私には小さな子供はもはやいないが、もし小学生の娘がいて私の目の前で呼び捨てにされたらその先生にビンタを食わせる事を我慢できる自信はない。
私の小学生時代は九州の筑豊であったが、そこでは初対面で呼び捨てにされる事は、最大の屈辱であり、それは即宣戦布告を意味していた。
すかさず手を出す事が正義であり礼儀であり、それができなかったら臆病者の烙印を押された。
子供の頃植え付けられたその感覚はまだ生きており、私は他人から呼び捨てにされると多分今でもその声は大脳を経由せずにビンタのトリガーとして筋肉に伝わるであろう。
呼び捨ては、はっきりとした上下関係が確立されるか、あるいは深い信頼と友情がなりたつ「俺、お前」世界が形成されている場だけで許される行為だったのだ。
現在でも、少なくとも私の年代や地域によってはこの感覚を持っている人は多い。
一方こういう感覚を持たなくなった若い人たちが増えている事は最初に述べた現象から分かる。
先生や親と友達感覚で接する事が良い事だと教えられてきた世代が増えたのだ。
しかし、こういう世代(私のような)がいるという事を理解するのは知識であり、知恵でありまた指導者なら最低限の常識である。
我が現空研では、こういう事が起きないように、先般皆に注意を促した。
問題はどの程度まで徹底させるかということだが、妙に細かい基準を作ると分かりにくくなるので簡単にした。
つまり、全ての呼び捨ては禁止という事にした。
したがって現空研では、親子以外では誰が誰を呼ぶ時も呼び捨ては禁止である。
道場においては厳然とした上下関係はある。
それは、帯の上下、先輩、後輩、年齢の上下である。
帯の上位者に関してはそれなりの礼儀があり、先輩に対してはそれなりの礼儀が存在する。
また、年長者に対する敬意は、日本文化の根源である。
それぞれに対しては異論はないであろう。
問題はそれらが複合した場合だ。
帯は上位であるが年齢は下であるとか、先輩の段位を追い抜いた時とかである。
これも現空研では簡単である。
二つの異なる基準が互いに矛盾した場合、自分にとって相手が上になる基準を優先するという原則である。
たとえば、自分の方が帯が上であっても相手が年長者であれば敬語で接すれば良いのだ。
だからケースによっては互いが相手を立てる場面が出現する。それで良い。
宴会などでは上座、下座といった場面がある。
指導者がいる場合は指導者に従えば良い。
いない場合、あるいはお互いが譲りあうケースでは、先に譲った者に一言礼を言ってそれに従えば良い。
その事に関して一言言及さえすれば礼は失しないし、こだわる必要もない。
しかし、指導者はこういう席では席順などに関して「今回は上下無しで」とか「無礼講で」と一言添える配慮は欲しい。
若者などでこういった社会習慣、常識に疎い者が居て間違っていれば教えてやるのも上位の者の役目だ。
若者の場合は殆ど悪意はなく、知識の欠如がその原因の大部分だから一回言えばすぐ分かってもらえる。
どなる必要はない。やさしく言えば宜しい。
きっと次回からは間違えない。
反抗したら殴っても良し。
こうして鍛えられ若者が優れた指導者になっていくのである。
本題にもどる。
子供を呼び捨てにしないのは、子供に対する敬意からではない。
本来子供は守るべき存在であり、鍛えるべき存在である。敬語で敬われる存在ではない。
ではなぜ、子供を呼び捨てにしてはいけないのか。
子供を呼び捨てにしない理由は子供の親に対する礼儀だからである。
親は自分の人生を賭けて子供を育てている。
そのことは自分の父母を思えば良く分かるはずだ。
その子供の親を指導者は少なくとも見下すような態度はとるべきではない。
親の前で子供を呼び捨てにする行為はどう考えても「敬意を持った」振る舞いとは考えにくい。