空手や柔道といった武道にかぎらないが、ピアノやバイオリンといった音楽その他のいわゆる「稽古」ごとと言われる分野の教育の方法について、一言述べる。
幼い子供たちの親は、子供の将来を考え、様々な夢を描く。
そして、適当な時期に子供に特殊技能を身に付けるさせたいと考える。
それがお「稽古」ごとだ。
多くの大人たちが誤解していることがある。
それは、子供の自主性という考え方だ。
「子供にやる気がでたら習わせてあげようと思う」とか
「本人に興味がめばえたらやらせる」といった言葉で代表される、子供の自主性にまかせるという考え方だ。
良いお父さん、お母さんの教科書的手本像がここにある。
子供の自主性に任せて成功するのは、天才的な能力を持つほんの限られた子供たちだけだ。
大半の凡人は全て挫折すると断言したい。
例えば、ピアノだ。
モーツァルトのような神童は別だ。
子供の頃気まぐれでピアノをやりたいなどと口走る子は掃いて捨てるほどいる。
これを子供の自主性の発露などと勘違いした親が無理して電気ピアノなんか買ってヤマハの音楽教室なんかに通わせる。
大半は中学に行く前にやめてしまう。
音楽の素晴らしさをわかったら、たとえ自分では楽器ができなくとも、
もし経済的に余裕があるなら、そして楽器を演奏することはすばらしいことだと感じたら、小さいときから習わせるべきだ。
そして、やりはじめたら最低18才までは、強制的に続けさせなければならない。
でも子供は必ず嫌がる。
最初の関門は小学5,6年生の時だ。
友達とあそんだり、勉強がいそがしくなったり、またへ理屈も多少言えるようになる。
親に信念がなければ、ここで負ける。
特に、子供の自主性なんてほざいている親はいちころだ。
月謝が負担になっていればなおさらのこと、渡りに船だ。
これを何とか乗り切っても、中学で殆どの子は止めてしまう。
多くの理由は受験勉強だ。
そして、家族の情熱の低下だ。
子供が幼稚園の頃は家族全体に活気がある。
子供の将来や夢をキャンバスに描けるエネルギーが家庭の中にある。
どんな楽器の騒音(子供のお稽古なんて騒音以外の何者でもない)でも、名曲に聞こえる心のゆとりがある。
中学生になれば、こんなばら色の家族の一体感はなくなる。
少なくとも、騒音は騒音として聞こえる。
大して才能もないのに、ここまで嫌がるピアノを無理してやらせて何になるのだろう。なんて思ってしまう。
これは、全部大間違い。
殆どの子供には才能なんてないのだ。
音楽のお稽古は、深窓の令嬢(古いなあ)ぜんとした我が娘がリビングのピアノでショパンの小犬のワルツをコロコロと弾いているのを、ロッキングチェアかなんかでワインを飲みながらゴルフ道具の手入れをしながら聞いている姿なんて、想像していたら甘い甘い。
人前で恥ずかしくない程度に小犬のワルツを弾けるようになるには、貴方はその曲を聞いただけでヘドがでるほどの回数聴きつづけなければならない。
あなたは娘がピアノを弾きはじめたら、一人町に出てパチンコでもしたくなる。
貴方は多分ピアノの音ノイローゼ。
子供は元々とうの昔にやる気を無くしているのだから、大人の貴方が情熱を失なったら、その時点でゲームセット。
こんなことなら、高いピアノなんか買わずに子供とキャンプに行ったり、外国旅行へでも連れて行ったほうがよっぽど良かったのだ。
子供は必ず嫌になる。
大人も必ず嫌になる。
では、ピアノはやらせないほうが良いのか。
ノー。
6才から始めたとして18才まで12年間、耐える覚悟と情熱があれば、子供ではなく貴方にだよ。
子供が大人になった時点で100倍の感謝をされることを保証する。
そして、仮に万が一の才能があれば、これほどの苦労をしないケースもありえるのだ。
しかし、このケースは極めてマレである。
ピアノが弾けるようになるかならないかは100%親の意思で決まる。
親が音楽の専門家の場合はこういったレベルのことは自分の経験則として知っている。
また、子供もある程度の才能を引き継いでいる可能性も高い。
しかし、我々のような凡人の場合は、特別の覚悟が必要だ。
必要なのは、10年以上継続する意思と多少の障害でもめげない、忍耐力だ。
初期のモチベーションを10年以上続けるには、人生観の確立も必要だ。
軟らかな決心が必要になってくる。
子供に実り多い豊かな人生を送らせたいと考えるのは世の親の常だ。
音楽は専門家をめざさない場合はあくまで趣味の世界である。
このたかが趣味の世界のために、これほどのエネルギーを費やすことに、意味を見出すか否かで、決まる。
現在ピアノが上手に弾ける人は何らかの形でこの親の継続的愛情を受けた人達だ。
とっかかりは子供にも納得させた方が良い。
めんどうな場合や稚なすぎる場合は省いても良い。
貴方が、文章や言葉にすることが得意なタイプで物事の理屈を本質を外れないで説明できる能力があれば、子供に説明すれば良い。これがベストだ。
しかし、大半の親にはそういう能力はない。職人的に本質は分かっていても言葉にはできない人の方が多い。
こういう場合は、無理に理屈をこねる必要はない。
俺を信じて黙ってついて来いで良い。大切なことは伝えたい事(本質)があるということで、言葉にできるかどうかにこだわる必要はない。愛情があれば、いつか必ず通じる。
そして一旦決めたら、子供がどんな理屈を付けても負けてはいけない。
止めない事。
しかし、無理をする必要はない。
毎日稽古する約束であったら2日、3日さぼってもそれは許して良い。
しかし1週間さぼることは絶対許してはならない。
ある時期進歩が遅くなっても、決してけなしてはならない。またあきらめたような言動も決して発してはならない。
やる気かない時は励まし、悩みを言ったら話しは聞く。
子供の言っている事はへ理屈の中にも真実がある。
しかし、だからといって止めることは一切許さない。
へ理屈を言い続けたら、親の威厳とあなたの全人格を賭けて一喝する。
また、誉めることは良いことだが、嘘をついてはいけない。本当に良いと感じたとき誉めれば良い。
貴方は専門家でないのだから、専門家が誉めるような誉め方はできるわけがない。
貴方のの感性で良いと思ったとき良いと言えば良い。
まとはずれでも構わない。愛情とはそういうものだ。これは必ず伝わる。
貴方はある時期子供に怨まれるかもしれない。しかも長期間。
子供に嫌われることを恐れたら、何事も達成されない。
親は子供に嫌われるものだ。
あらゆる躾や学習は、やがて自分(親)が死んだとき、子供が自分で力強く生き、実り多き人生を歩ませるためだ。
その目的を達するなら嫌われたって構わないだろう。
しかも嫌われるのは子供が子供の時期だけだ。
本当の愛情と信念を持って接すれば、やがて理解してもらえる。
大切なのは人生を一貫させること。
何が大切で何を捨てるのか、親がしっかり見極めて、信念を持って生きてゆけば、それは子供に伝わる。
子供のへ理屈にいちいち付き合う必要はない。
子供にかぎらず人間は自分が楽したり、欲望を達成するためには、かならず理屈を付けるものだ。
思い付きではない人生観を持ち、10年以上続ける覚悟でとりかかったら、黙ってついて来させれば良い。
子供の人権なんて言葉をこういうとき持ち出す馬鹿もいるが、こんなレベルで軽々しく使うと、本来の意味が薄れてしまう。
人権という言葉は、もっと本当に論じなければいけない深刻な状況が別にあるのだ。
へ理屈が過ぎる場合は、腕づくもやむを得ない。貴方は人生の先輩であり、修羅場も経験して少なくとも貴方の判断の方が、高い確率で、正しいのだから、自信を持って断行すべし。
しかし、長期戦だから休息は必要。
ときには相手の言訳や作り話を聞いてやる余裕があっても良い。
ここいらは個人個人の性格なども関係するので、自分らしく振る舞えば良い。
原則は決して曲げてはいけない。
例外措置をとる場合はかならず例外だと言わなければならない。
きびしく、しかし柔らかく。
稽古ごとはどんな分野でも10年以上続けなければ本当には身に付かない。
稽古をする、あるいはさせるということは人生そのものである。
ということは人生は稽古であると言っても良いかもしれない。
子供に教えるということは、子供に自分の人生をさらすことである。
人生をさらし、稽古をするということが子供を教えることになる。
きびしく、しかし柔らかく、一貫して、
そして愛情を持って。
私は、子供のころ全く才能がないのに母の強い意志と情熱でピアノを続けさせられた。
楽しいと思ったことは一度もない。
中学生の頃はずいぶん汚い言葉で母をののしったこともある。止めることを正当化するへ理屈も言い続けた。
しかし、母は止めさせなかった。
おかげで私は現在音楽を深く楽しむことができ、人生が何倍も実り豊かになっているという実感がある。
母には100万倍の感謝をしても足りない。
しかしその母はもう今はいない。