2020/10/09
久しぶりに筋肉トレーニングについて話してみよう。
空手における筋肉トレーニングの意義は空手の総合的な技量向上に大いに貢献するところにある。
同じ技術の持ち主同士であれば当然力に勝る者が有利である。
これはあらためて言うまでもない事実であるが、問題は筋肉の力というか総合的なポテンシャルをどのように捉えるかにある。
例えば握力や背筋力を測定器で計った数値で捉えたものを、そのまま筋力と言って良いのか。
サージャントジャンプの数値や腕立て伏せの回数といったもので計れるのかである。
あらゆる測定値は、その特定している部位や範囲においてのみ意味があるのであって、空手という総合的なシステムの中での潜在的ポテンシャルを知らしめるものではない。
こう言ってしまうと、面倒くさい話になるのだが、私は長い経験からあるシンプルな考えを持っている。
それは筋力を結果から捉えるのではなく、その過程に着目するという捉え方である。
例えば、バーベルを上げるというトレーニングであるが、
重量挙げの選手とボデイビルダーでは、その目的も当然違うが、心構えや考え方もまるで違う。
同じ重い物を持ち上げようとする行為そのものは似ているが、心構えはまるで違う。
重量挙げの選手の最終目的はより重い物を持ち上げる事が目的であり、それに最も適応した筋力を獲得することがトレーニングの意義となる。
ボデイビルダーは、目的としている部位の筋肉量を増やすことが第一義で、重さの数値を争うものではない。いかに筋肉に効率良く効かせ筋肥大を起こさせるかが課題となる。
もちろん共通のところも大いにあるのだが、最終目的がまるで違うのでその過程における心構えや関心事は全然違う。
本題に入る。
空手における筋力トレーニングは、当然見た目の筋肥大を狙うものではない。
突きや蹴りおける威力を増すことが最終目的である。
誤解しないように言っておくが、ボデイビルダーの筋肉を無駄と言っているわけでは決してない。
筋肉量は多ければ多いほど力の絶対値は大きいので、ボデイビルダーが筋肥大を得るため長年にわたって培ってきたノウハウはものすごく参考になる。
ここで一旦話題を変えるが、私が長年言い続けている「脱力」についてである。
私の言う脱力は「力を無くす」あるいは「筋力を弱くする」ということでは全くない。
脱力とは意識上と筋肉の生理学的な状態を結び付けた概念であり、無力という意味ではない。
分かりやすい例えで言うと、ベテランの大工や刀鍛冶といった高レベルの職人の方々の力の使い方を指している。
道場でも時々話しているが、私が中学生の頃、家に畑がありジャガイモを育てていた。
芋堀は私の役目であった。
力もそれなりに強い方であったし、何しろ若かったので、全力で芋堀に励んだ。
家には時々力仕事や畑仕事を手伝いに来てくれる「センちゃん」と呼ばれていたオジさんが居た。
当時は多分50才から60才くらいだったと思う。筋肉質ではあるが小柄な人で無口だった。
私が一日全力でへとへとになるまで掘った芋畑をセンちゃんがまた掘り返す。
ほどなく、私の掘った倍以上の芋をこともなげに堀り出してくるのだ。汗一つかかず。
見ていると鍬の入り方が全然違う、軽く掘っている(ように見えるのだけど、地面への入り方が私の倍くらいはあるのではないだろうか。
マキ割も上手だった。どんなに太い丸太でも簡単にバカーンと割っていった。
彼の使っている鍬や斧が特殊なものでは決してない。私と同じ道具を使っているのにまるで違うのだ。
鍬を深く地面にめり込ませたり、太い丸太を割るには物理的な絶対的なパワーが必要だ。
しかし、そのパワーはセンちゃんの動作や表情からはまるで感じられない。
軽くポンと振っているようにしか見えないのだ。
本人の意識も決して力んで振り回してはいなくて、ごく自然に軽く振り下ろしているに違いない。
恐らく熟練の大工さんが太い釘を打つ時や刀鍛冶師や鉄を鍛える時も同じような感覚なのだと思う。
素人のように力みかえってやってはとても長時間続けられるはずがない。
この秘密が脱力なのだ。
本人は軽く(脱力して)動作を行うが結果的には強大な力学的なパワーを発揮している。
この意識(脱力)と結果(物理的絶対パワー)の乖離に着目することが究極の強大な力を身に着けるカギとなると思う。
この脱力の意義は様々なスポーツや武道でも表現は異なるが言われてきた。
しかし、それを獲得するための具体的方法論に関してはあまり目にしたことがない。
全く無いわけではないが、精神論や心構えといった立場での論が多い。
私がこれから提唱する方法は、精神論ではない。
具体的なノウハウだ。
参考になるのはボデイビルダーが良く使う「効かす」という言葉だ。
「効かす」とは言葉を換えれば最も非効率的な筋肉の使い方だ。
目的の部位の筋肉を最も疲労させるような、限界を超えるような使い方。
そして「もうダメだ」と思えるような限界点まで攻める。
筋肉は悲鳴を上げる。
それを怪我をしない範囲で繰り返し追い込む。
筋肉の使い方としては最も非効率使い方と言える。
当然強烈な筋肉疲労に見舞われる。
筋肉は破壊される(回復可能な範囲で)
そして、適当な休息をとることで超回復を促す。
これが筋力増強の基本的なメカニズムとなる。
ここまでは、そんなに新しい話ではない。
こうした原理を通常の稽古や筋トレ、また日常の中でどのように取り入れ、効率的にトレーニング、稽古をしていくかという問題が今回のテーマである。
話をまとめて目的と手段を簡略化しておこう。
目的は、究極の脱力を得る事。
究極の脱力とは、主観的に力を殆ど使わず、力むところなく、何時間でもその動作を続けられ、しかも一切の疲労も無いといったもの。
客観的には、圧倒的に強大なパワーを発揮する。(精神論的なパワーではなく)物理的に測定な可能な現実のエネルギーの現出。
これを実現するための具体的な方法とは、
これが今回のテーマである。
私は何十年もこれの解明をめざしてきたが、最適解はまだ見つかっていない。
ただ、こうすれば簡単に近似式に相当する方法論になるのではないかという仮説は持っている。
それを披露しよう。
それは同じ動作やトレーニングにおいて疲れる方法と疲れない方法の2種類を行うということだ。
例えば、現空研独自の鍛練方法として、正拳アゴ突の連続打ち(ジャブと考えてよい)を一定時間、最速で行うといったトレーニングだ。
通常は30秒あるいは1分間と時間を区切って回数を競わせる。
グローブ着用の試合に出る選手にはグローブ着用で行わせる。
これはかなり速成効果がある方法なのは私が自分で経験して知っている。
最初はこのトレーニングは絶大な効果があるのだが、だんだん慣れてくるとその効果が弱くなってくる。
それが今回のトレーニングのカギとなる点だ。
最初回数を報告しあうといった方法で行ったが、だんだんこの回数の数値が目的化してくるのだ。
分かりやすく言うと、回数を稼ぐ効率的な打方を無意識で工夫してくるのだ。
つまり、効きもしない威力のない突き(拳もろくに握っていない)で見かけだけ整え、回数を稼げる方法を無意識に探してしまうのだ。
人間はもともと最も楽な方法を追求する本能を持っている。(ずるいとかではなく生存競争に勝つための本能だと思う)
そうすると、効かす突きを目指して始めたのに、違う方向性を持ったある主の特殊技術(空手にとって何の役にも立たない)だけが上達するということになる。
本当は当たれば効く突きをできる限り時間内に連続して多く出すということで行わなければ意味はない。
回数で競争させると、回数稼ぎに目的が変わってしまうのだ。
この問題は一旦これで止めておく。
言うまでもなく意味があるのは、効かす突きを保ちつつ、回数を増やすトレーニングなのだ。
勿論ヘトヘトに疲れる。
結論としては、へとへとに疲れるが実際に効く突きで限界まで追い込んだトレーニングに意味がある、ということで終わりだろうか。
確かに表現や具体的な方法は違っても、いろんなアスリートが実際に行っている事に近いと思う。
しかし、私の提言は、まず以上の事を大前提としたうえで、最初、弊害として語った「楽する方法」にも意義があるのでは、といった考えだ。
苦しい方法をいやという程理解して実戦した後、ずるい「楽な方法」をあえて意識して行うといった提案である。
きつい方法は筋肉をトレーニングする事に繋がり、
楽な方法は神経系をトレーニングする事に繋がるのではないか。
これが現在私が考えている理想の近似式なのだ。
もし私が陸上の監督だったら短距離選手に行ってみたいトレーニング方法がある。
それは100mの緩い傾斜のトラックを作り、登りと下りの両方でトレーニングするといった方法だ。
登りのトラックは筋力養成のため、
下りのトラックは神経養成のためだ。
下りのトラックなら一流選手なら100mを9秒台で楽に走れるだろう。
これを脱力して何度も走り、その動きの神経系を養う。
そしてそのリズムとテンポを平坦なトラックでも実現できる筋力と筋持久力を登りトラックで鍛える。
これは、先ほど述べた空手の連続突きの二つのトレーニング方法の陸上版ということになる。
結論
あらゆる空手の稽古、基本や形、乱撃、乱取、寸止組手、フルコン組手、筋トレ
全ての種目において、あえて疲れるやり方と楽なやり方の両方を意識的に行う。
疲れるやり方は、筋力や持久力を鍛えるため
楽なやり方は神経系を鍛えるため