2014/10/01
もう随分昔の事になるが「謙遜と卑屈」というタイトルでコラムを書いた。
結論は一言で言えば「逃げない」事であると結んだ。
この結論はもちろん現空研会員に向けての言葉であるが、むしろ自分に向けての自戒の言葉であった。
このコラムは思わぬ反響を呼んだ。
多くの方からメールをいただいたりお会いする人からこの内容を元に空手を話題にされたりする事が非常に増えたのである。
そして「卑屈」は現在でも現空研ホームページを参照される検索ワードの上位に常にランクされている。
メールは、空手を初めてとする武道に関係する人たちと同様、対極に位置すると思われるストレス性の様々な精神的な疾患を患っている人たちからも少なくない。
人は強そうに見える人も弱そうに見える人も本質的には大差ない「弱い存在」なのだということをあらためて認識させられた。
今日は「卑屈」ではなく「謙遜」にスポットをあててみたい。
謙遜という言葉は大変美しい言葉である。
世の東西を問わず「謙遜」が否定的に語られることはまずない。
「謙遜」は皆の尊敬を集めるのである。
とういことで、世の中の真面目な人や良心的な人、またそれを目指そうと思う前向きの人は皆「謙遜」を身に着けようと頑張る。
そして、特に日本では「出る杭は打たれる」ということわざもあるように、控えめでいる方が世の中をわたりやすいという風潮もそれを後押しする。
確かに、世の中には傲慢、傍若無人、身勝手、厚顔無恥な威張りたがり屋も多い。
ということで「謙遜」する人は余計光って見えるわけだ。
しかし「謙遜」する事で全てがうまく行くと思っていたらそれはちょっと考えが浅い。
と言うと、本心からの謙遜でない輩もいるからでしょう、と先回りするうざい奴もいる。
先に言った「謙遜」することが世の中を上手にわたるコツであるということで、謙遜仮面な奴は確かに腐るほど居る。
しかし、今回問題にするのは本物の「謙遜」する人たちの事である。
最初は弱かった人が熱心に空手の稽古に励み強くなる。
しかし、本人は極めて「謙遜」的なため、自分が強くなったという自覚はない。「自分なんてまだまだ」と思っている。
言動も控えめであり、礼節もわきまえている。
弱かった頃と同じようにどんな相手にも全力で立ち向かう。
ここに困った状況が生まれる。
本人はまだまだ弱いと思って謙遜し全力で立ち向かう。
装った「謙遜」でなく本心から信じての「謙遜」さなので、手加減がない。
自分を強いと思っていないわけだから、これはしようがない。
相手になった人は大変である。
彼より地力のある強い人なら問題はないのだが、弱い人や体力のない人は遠慮のない攻撃にさらされる事になる。
常識のある人ならたとえば相手が子供であればこれに全力で立ち向かう事はしない。
相手が子供でなくても圧倒的な力の差があり、これを認識していれば全力で相手に立ち向かうなんて事は余程特殊な事情がないかぎり行わない。
これは「手を抜く」とか相手を軽んじているわけではない。
相手が自分より弱ければ、稽古であれば状況に応じた強度の対応ができる。
もちろん勝負はやってみなければわからないし、強い弱いは絶対的な尺度があるわけではない。
しかしこれはある程度のレベルをクリアした者同士で言えることであり、地力に差があれば普通は強い側の人間はわかる。
人は自分以上のレベルのものはなかなか理解できないが自分以下のレベルのものは良くわかるのだ。
それをことさらへりくだって分からないというのは「謙遜」の押し売りだ。
実はこうしたあまりにへりくだった「謙遜」は私は「傲慢」の裏返しだと思っている。
「謙遜」であるという安全地帯にいることで全てから免罪されるという無意識の「傲慢」なのだ。
本当に弱い人が謙遜しすぎてもすぐには問題にならない。
しかし恐ろしく強い人が謙遜しすぎたた場合の怖さは先に述べたとおりだ。
本当の自分を過不足なく正しく認識すること。
これが本当は一番正しい道なのだと思う。