ヒット カウンタ

喧嘩


私は喧嘩はしないにこしたことはないし、そういう状況にならないことを目指すのが一番大切なことであると思っている。
まず、この大前提を理解してもらったうえで、私の喧嘩遍歴を述べて見たいと思う。

喧嘩には男としての誇りやいじめられている者を救いたいと思う気持ち、また自分の力を誇示したいという浅はかな欲求、様々な要素がからんで起きる。
それを事実として認識し、冷静に振り返ることで、将来に向かって喧嘩をしないですむ方法やそうした社会を目指す多くのヒントを得られると思う。

これから空手を学んで強い人間になろうとする若者の参考になれば幸いである。

私は若い頃伝統的な空手の流派の中でももっとも荒っぽいと言われた剛柔流に入門した。
また、子供の頃は九州の炭坑ですごした。都会育ちの人には想像できないほど、多くの大人たちの喧嘩を見て育った。

日本刀を持ったやくざが家におしかけ、これを同じく日本刀を持った親父が応接間で対峙しているのを障子の隙間から息をつめて覗いていたこともある。

親父の関係する会社が戦争のときの多くの捕虜を労働者として使っていて、終戦と同時に彼らが開放されるとともに立場が入れ替わった。
彼らは、私の生まれる前は被害者であったが、私は終戦後生まれたので記憶にあるのは、こちらが被害者になった場面だけだ。

私は彼ら日本人以外の人の子供とも友達になったが、今考えると理由がわかるが、その時は子供には想像もつかない理不尽な仕打ちをうけたこともあった。

米軍が捕虜のための食料を収容所付近にパラシュートで落とす。
収容所の責任者をやっていた父は、その食料の中から栄養のありそうなものをかっぱらって、家に持ち帰った。

家には、当時青山学院の学生で戦争中工場の工員として駆り出されていた叔父さんが重い病気に栄養失調が重なって寝込んでいた。
親父は何とか栄養をつけようと思ってバターやチーズを持ってきたのだ。

この叔父さんは中学(今の高校)時代は、筑豊では一番柔道が強く、喧嘩も強かった。
しかし、一番やさしかった。

やがて食料が足りないことを米軍が知ることになり、MPが家に調査のためやってきた。
親父は短刀を懐に入れてジープでやってきた米軍人と決死の対決した。

しかし事情を知った米軍はそのまま何もしないで帰っていった。
その後、叔父さんは皆の必至の看病もむなしく亡くなった。

最近の大都市あるいはその近郊でそだった若者がアウトドアブームなどで田舎は良いですね、なんて話をする。
私にとって田舎のイメージは炭鉱労働者とそれを利用する労働組合、地元やくざと利権をあさる政治ゴロ、進駐軍、選挙そして喧嘩である。

結果的に私は20歳までに数え切れないくらいのガチンコの喧嘩をした。

小学生の時は卒業式の日に学校で一番の今で言えば番長の子供の腕を木刀で折り、卒業証書を取り上げられた。
その時の担任の先生にいやというほど顔を拳骨で殴られた。

その先生は親父と中学時代同級生で柔道のライバルであったという話だ。
その後先生が親父に殴られたという噂があったが、真偽のほどは分からない。たぶん単なる噂だと思う。親父も否定していた。

私を殴った先生の娘は同じ小学校で同級生であり優等生でかわいかった。

ある時妹と道を歩いていると向こうから背の高いアメリカの兵隊が来た。
妹がじっと兵隊の顔を見ていた。

兵隊は何を思ったかいきなり妹の鼻をつまんでひねった。
大声で泣きだす妹。私は兵隊を殴りたいと思ったが怖くてできなかった。

私が後に京都の空手道場で特にアメリカ人をKOした理由はこの原体験が下敷きとしてあった。

中学や高校でも喧嘩の数は少ないほうではなかった。
私は心情は繊細で心やさしい子供であったが、欠点は正義感が強すぎて短気であったことだ。

また、今でも多少残っているが相手の言葉や態度に敏感であった。
大学に入ったとき、入学式で初対面の男に「おまえ」よばわりされてそれだけで殴り倒したこともあった。

しかし、いつも勝っていたわけではない。
足腰たたなくなるほどかんぷなきまでやられたこともある。

勝った喧嘩でも両者ともへろへろになりどっちが勝ったのかわからないようなものも多い。
まあ、相手が強い場合、無傷で勝ったことはほとんどない。

私は前歯が全部作り物だが、全部喧嘩で失ったものばかりだ。
空手で無くしたものは奥歯の一本だけだ。

私は20歳にして前歯がすべて入れ歯だった。
私は、空手を始めた動機は強くなるためだった。

強くなるというのは高尚な意味の強さではなく、喧嘩に強くなるという意味だった。
私は18歳以降は喧嘩で負けたことがない。

最後に負けた(?)喧嘩は高校3年の時だ。
つまり、空手をやりはじめてからは負けたことがないということになる。

まあ、正確に数えたわけではないが50戦無敗ていどかな。いやもっとあるかもしれない。
しかしその喧嘩も殆どが茶帯をとるまでの話だ。

黒帯をとってからはほとんど喧嘩らしい喧嘩はしたことがない。
数少ない喧嘩の一つに、40歳位のとき地下鉄千代田線で会社の仲間が理不尽な暴力を受け、それを止めに入って矛先がこちらに向かいそのため正当防衛を行使したときのものがある。

この時は過剰防衛(?)ということで警察のお世話になった。
しかし最初はボコボコになった相手を見て誤解していた警察も息を吹き返した暴漢が警察署でも警官相手に暴れはじめて事情をわかってくれ、最後は丁重にパトカーで自宅まで送ってくれた。
相手はそのまま豚箱。

しかし警察署内でいきなり暴れ出した男を警官が膝蹴り(?)でダウンさせたシーンは圧巻であった。(実は仕切りがあって直接は見えないのだが、すさまじい音と仕切りのカーテンへ写るシルエットで全てがわかるのである)
帰りのパトカー内では警官が空手についていろいろ話かけてきた。

私はここで喧嘩を奨励しているわけでもなく、また喧嘩自慢をするつもりも毛頭ない。
過去の自分を肯定するつもりもないが、否定する気もない。

昔殴りあった仲間とは今も友達である。
なぜ、今彼らと笑いながら飲めるのか。
それは、お互い卑怯な喧嘩をしなかったからだと思う。

喧嘩になりそうなときはすたこら逃げれば良い、ということを誇らしげに言う人は多い。
これはある面正しく一理あるが、ここではほりさげないし、議論もしたくない。
男として避けられない喧嘩もあるということだけでとどめておこう。

相手にも理がありこちらにも理があって相手を尊敬しながら、なおかつ決着をつけなければならない喧嘩も過去にはあった。

高校3年の最後の喧嘩はそうであった。
相手は柔道部の猛者だった。

結果は引き分けだったが、私は額を5縫う傷を負った。ボクシングならテクニカルKO負けというところだ。
しかし精神的には勝っていた。

そのとき審判役をしたのが同じ柔道部の親友のTだ。
Tがそのとき喧嘩は柔道より空手が強いな、とボソっと言ったのが心に残っている。

Tは文武両道の熱血漢で、東大の理V(医学部)を受験したが惜しくも落ちた。
しかし東京医科歯科大学に入り、そこで空手部に入って和道流空手を始めた。

空手を本格的にやりはじめてからは喧嘩に負けたことはないという言葉に嘘はない。
というより、喧嘩をしなくなった、というのが正解だろう。

高校生や浪人の時はビリビリしていた。
神経は繊細であったので、弱いものがいじめられるシーンには過敏に反応した。

介入する必要のないもめごとまでにも顔を出すことが多かった。
不良っぽい学生が女の子にからんでいたりすると、関係ないのにちょっかいだして殴り倒していい気になっていたこともある。

今考えると余計なお世話だったのかもしれない。
それが、なぜ黒帯を取ってから喧嘩が激減したのか。

まず、心に余裕ができたのが大きいのかもしれない。
相手の心無い暴言への許容範囲も大きくなったような気がする。

理科大生のとき行き着けのスナックで女ぐせの悪い早稲田の学生を殴ったことがある。
相手の鼻の骨が折れ店の床が血で真っ赤に染まるほど出血させた。

救急車を呼んだり大騒ぎになった。
空手の有段者になったこの頃は素人相手の喧嘩では数秒でかたがつくほど力に差ができ、どんな喧嘩でも丁々発止になっていた高校の頃とは様相が一変していた。

しかし、喧嘩は減ったが、相手は素人でない者が多くなってきた。
私は大学生のとき、ある高級クラブでアルバイトをしていた。

当然、カタギでない者との接触が増える。
私の体つきや腕周りの筋肉を見て、素人ではないと感づく筋者もいる。

一度自称キックボクサー崩れというヨタと喧嘩になったことがある。
彼を一撃で倒してから、どういうわけか、若いやくざ者に先生と呼ばれる存在になっていた。

こういう世界にいて、女と酒がからむと、少ないとはいっても年に何回かは面倒な事態に遭遇する。
私は決して堅物ではなくそれなりの遊びもするが、こういう店でそこのホステスと遊ぶとかちょっかいを出すということは一切しなかった。

しかし、それが逆効果を生んだ。
店のマスターは小指のない元やくざの大男であったが人情味のある人だった。

しかし、私の女に対する態度と裏表のない性格を気にいってくれたのか大変良い待遇で受け入れてくれた。
彼も学生の私を先生と呼ぶようになっていた。

もっとも私は3年浪人して大学に入り、しかも2年留年しているので結構年取った学生ではあったが。
困ったのはホステスたちの私への態度だ。

彼女たちは毎日毎日、あわよくばと体を狙っている男たちにさらされているわけだ。
そこに、そんなこと一切興味ありません、といった風情の若い大学生の私が入ってきて、しかも若いやくざや店長までもが「先生」と呼んでいるのだ。

ある意味で新鮮だったのだろう。最初はいわゆるお色気挑発の嵐の洗礼を受けた。
今思えばマスターが私を試すつもりで仕掛けていたのかもしれない。

私とて石仏ではないのだが、行きがかり上女には興味はないという態度をとったものだから猛反発を食らってしまった。

こういう挑発は脇から見るともてているようにも見える。
それを嫉妬するトンチンカンも現れる。
ここでもまたやる必要のない喧嘩に巻き込まれることがあった。

東京理科大学の学園祭でこのてのクロートの女の子が大挙しておしかけてきたことがあった。
舞い上がった男どもが紹介しろ紹介しろとうるさい。

馬鹿が、と思いながら一応紹介したが、下心見え見えのガキ学生など鼻であしらわれるのが関の山だった。

ホステス達からはよく人生相談めいた話を持ち込まれた。
私はこういう話には結構まじめに応対するので、連中もおもしろがってわざとやっていた節もある。

まじめな相談もあったと思うがからかい半分のものもあったようだ。
しかし女たちの気楽さとは関係なしに彼女達を取り巻く男が黙っていなかった。

こういうプロの女にはほとんど男がからんでいる。
しかもあまり上等でないやつらが多い。

連中の勘違いや嫉妬からまた喧嘩が起きるのである。
最初は私もガキだからわけもわからないままガチンコの喧嘩をしたこともあったが、だんだん要領をつかんできて喧嘩にならなくなってきた。

一言でいえば連中の面子を重んじるということである。
しかし、夜中にいきなり血相変えた不健康そうな男たちにアパートに踏み込まれると、どんなに腕に自信があっても金玉の縮む思いをするものである。

こちらに理がある場合は決して逃げないことと、度胸を決めて正面から向き合うというのが当時の私の流儀だった。
しかし、いくら筋が通っていて、こちらが正しくまた度胸があっても、肝心の力がなければ結果は悲惨だ。
力無き正義の末路や哀れ。

あるとき、店にいかにもその筋の者といった人相の良くないやつが入ってきた。
店に入るなり床の絨毯にぺっと唾を吐いた。

理由は私の知るよしもないが、明らかな挑発である。
たまたま、店にはマスター以外には男は私しかいなかった。

女の子たちはキャーといって店の奥に逃げ込む。
私は、反射的にカウンターの奥で身構えた。

立ち上がろうとする私の肩をマスターが抑えた。
「先生は何もしないでいいよ」

マスターはゆっくり男の方に歩いていった。
マスターはゆっくりとしか歩けないのだ。

男としばらく口論になっていたが話が途切れた瞬間マスターは男を捕まえて頭突きを食らわしていた。そして倒れた男の上から数発のパンチ。
男は失神した。

マスターは店の表に準備中の札を出すようにホステスに命じた。
男はやがて息を吹き返し、その後マスターと何やら話していたが、納得したのかやがてフラフラと出ていった。

初めてマスターのガチンコの喧嘩を見た。
強い。

マスターは当時30歳代だと思うが、事故で片足を失っていたのだ。
だから義足であった。

その体でああいった喧嘩ができるのだ。
私はその手際のよさと強さに「うーん」とうなるばかりだった。

マスターは、誰もが知っている日本有数の広域暴力団の組員だったが、指をつめて足を洗っていた。
商売一途でありまじめで、バーテンやホステス達の人望もあつかった。

しかし、私はその喧嘩のあざやかさが一番印象に残っている。
私は当時、素人に喧嘩で負けるということは考えることさえできないくらい自信をもっていたが、このマスターとは喧嘩したくないと本心から思った。

このように私は子供の頃の環境や自分自身の性格から多くの喧嘩の体験をしてきた。
そして喧嘩に強くなるために始めた空手によって結果的には喧嘩をしなくなっていった。

喧嘩なんかしないにこしたことはないしそれ自体何の価値もないものである。
しかし、喧嘩というものは特に男であれば人生でかならず遭遇するものであるし、どんなに避けようとしても避けられない事態におちいることもある。

なぜなら、喧嘩とは自分だけの問題ではなく、必ず関わる他人との関係で起こるものだからである。
俗に言う「売られた喧嘩」というものがある。

喧嘩を売られた場合、どういう処理をするのかというのは、その人の人生観や価値観とも絡み合う。
また、特に自分に対して売られた喧嘩でなくても、自分の家族や、弱い者いじめの現場に遭遇することもあるだろう。

見て見ぬふりをしたり、逃げるのも方法の一つではあるが、立ち向かうのも方法の一つであることを正視しなければならない。

喧嘩を売られた場合にとるべき態度は以下の3つである。
1. 断る
2. 買う
3. 逃げる

どの選択が良いかは状況によって変わる。
しかし、ここで若い有能な人に注意しておきたいことがある。

喧嘩はどんなささいなものでも命を落とす危険があるということだ。
それは自分ももちろんだか相手にとってもだ。

だから、守るべき誇りや自尊心があったとしても命をかけるほどのものか、という観点を忘れないでほしい。
君がもし死んだら悲しむ多くの人がいるのだ。

私の若い頃最も欠けていた視点がこれだった。
今思えばよく命があったものだというのが正直な話である。

結論はまず強くなること。強くなることで暴言や理不尽な行動に対しても寛大になれる。

これが私の結論だ。

 

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