今回はちょっと話題を変えて経済学でうんちくをたれてみよう。
日本はいわゆるバブル景気からの崩壊から現在まで10年以上の長きにわたる不景気に見舞われている。
テレビや新聞で不況という文字を目にしない日はない。
失業率は増えるばかりだし、株価は下がる一方だ。
学生は就職先が見つからないし、中高年はリストラと称する首切りに戦々恐々としている。
構造改革を錦の御旗として国民の圧倒的支持をえて誕生した小泉内閣であるが、その姿勢は多としても今のところこれといった成果を実感できるところに程遠いのが実情だ。
経済は全ての国民が関心のある話題であるのだが、一旦これを議論するとなると訳のわからない専門用語や小難しい理論でなかなか本質を掴むことができない。
新聞の経済欄を読んでもテレビの解説を聞いてもピンとこない方も多いのではないか。
私は難しい話は、話自体が難しい場合と話をしている人が本質的に理解していないため難しく感じる場合の二通りがあると思う。
こと経済に関してはこの後者つまり物事を本質的に理解していない人が喋ったり書いたりしているというケースが圧倒的に多いのだ。
経済はその原点をおさえれば実務レベルではそんなに難しいものではない。
原点をあいまいにしたまま末端枝葉の議論を専門用語をちりばめて議論するからわけがわからなくなる。
例えば武道を考えてみる。
武道の原点はその目的と方法の二つに分かれる。
方法に関しては「同じ体力の2者が戦う場合の勝つ方法」の追求というのがその原点になる。
前提は似た体力(単位が違う程かけ離れてはいないという意味)という事を忘れてはいけない。
ライオンとコオロギが戦うという前提ではないのだ。
ライオンの立場ではコオロギと戦うためのテクニックというのは無意味だ。
もちろんコオロギにとってもだ。
これがライオン同士やあるいはせめてライオンと牛という対決であれば意味が出てくる。
つまり、知恵や工夫、鍛錬によって結果を変えることができるという状況で意味がでてくるのだ。
これは経済にもそのままあてはまる。
もし、生存のための食料が常に有り余るほどあり、衣服が必要ないほど一年中適温であり、外敵が存在しない環境であれば、ここには経済は必要なくなる。
経済は、常にそうした必要な食料や衣服や身を守るための物が不足している状況で発生する。
これが第一の原点である。
経済は圧倒的な豊かさや圧倒的な欠乏の中では存在しない。
つまり、放っておけばいろんな物が不足するという状況が経済の原点なのだ。
不足する物とは具体的には何を指すのだろうか。
最初に考えつくのはまず食料である。
そして着るもの、住むところ、いわゆる衣食住である。
ここまでは常識。
これをもっと深く掘り下げてみよう。
食料を得るにはどうすれば良いか。
原点は狩猟と耕作である。
しかし、これをもっと深く掘り下げてみる。
狩猟には人が必要である。
耕作にも人が必要である。
つまり人間がどうしても必要ということになる。
これももっと掘り下げることができる。
人間といっても、ここで必要なものは容姿でも美声でもない。
必要なものは人力である。労働力が必要なのである。
ここらの原理を徹底的に解析したものがマルクス・レーニンの共産主義であろう。
しかし、もっと掘り下げて考えることも可能だ。
労働力はその供給者が何も人間である必要はない。
人間を労働力の供給者のみとしてみた場合最も原理的な存在は奴隷であろう。
奴隷とは命令にただ従うロボットのような存在である。
では、もし人間のような完全なロボットができればどうだろうか。
全ての労働はロボットがこれを行う。
ロボットは労働の供給者でありそれを甘受するのは人間とすれば、人間には労働者階級という存在は必要無くなる。
なるほどこれは大変うまい考えだ。
しかし、
ロボットは誰が作るのか、そしてその食料じゃないエネルギーはどうなっているか。
誰が作るのかは最初は人間だと考えよう。
そしてロボットを作るロボットができればあとは勝手に自己再生産で増えくれるという原理だ。
で最後にのこるのはエネルギーだ。
エネルギーは自己再生産ができない唯一のものだ。
最終的にはエネルギーの確保というのが人間の存在あるいは発展のための原点であるということがわかる。
エネルギーさえ恒常的にしかも潤沢に確保できれば、全ての問題は時間さえ十分にあれば解決できる。
もちろんこれは経済という側面だけでの議論であり、精神的な充足感とか生きがいといったものは別問題である。
今述べたロボット論はもちろん現時点では机上の空論である。
しかし、現在の工業の生産というのはこのロボットの原理に近いものになっている。
人間の存在はこのロボットの管理や生産物の再分配をどのように行うかというシステム構築や管理がその大きな任務になっているし、これはますますこの方向で進んでいくに違いない。
工学がシステムを構築したり管理する技術面を担う学問だとすれば経済学はこのシステムを構築、維持管理するための運用面を担う学問だ。
もっと掘り下げれば、エネルギーの変換技術を担うのが工学であり、エネルギーの配分を担うのが経済だということができる。
エネルギーこそ全てという大前提をまず公理として理解しておこう。
例えば食物や衣服はエネルギーからの成果物であり、広義ではエネルギーに含めることもできるという考えである。(現時点では狭義のエネルギーは原油であるという近似式もなりたつ。)
次にお金(貨幣)という第2の原点を考える。
まず、適当なエネルギーがあり、それをもとに食料を自動生産する機械があるとする。
この食料生産能力がそこに存在する人々の必要量をはるかにしのぐ程潤沢であれば問題はあまり発生しない。
しかし、食料の生産量が必要ぎりぎりあるいは少し不足するという程度だったらどうだろう。
誰がどれくらい配分を受けるかという問題が当然発生してくるのだ。
自然界における動物の闘争の殆どはこの食物の配分をめぐる争いだと見ることもできる。
最も原始的かつ直裁的な原理が弱肉強食だ。
人力=エネルギーという考えからは働き(労働量あるいは労働時間)に応じた配分が合理的という考えが生まれる。
この原理が今の経済学の基本原理になっている。
例えば労働価値説とは労働時間とエネルギー生産が比例関係にある場合のみ成り立つ。
この原理によって、「働き」つまり「価値」を客観的な評価として、しかも証拠書類として時間経過に対しても価値が担保(保証)されるように作った書類がお金である。
お金を持っているということはエネルギーを生むための動作を過去行ったことがあるという証拠書類を持っているということなのだ。
この証拠書類は他人に譲渡することもできる。
なぜなら、この証拠書類は誰が持っていようとも過去においてエネルギーを生んだという事実に変わりがなく、このためにエネルギーの成果物を誰が得たとしてもトータルのシステムのエネルギー総量には変化がなく運営上の支障はまったくないからだ。
しかし偽札が作られれば、エネルギー総量より証拠書類の方が多くなり貸借があわなくなるぞ。
ここでお金というものの根本原理をもう少し考えてみよう。
物々交換という経済行為がある。
これはお金という書類を介さないでエネルギー成果物を等価交換する仕組みだ。
これは価値の交換がリアルタイムで行われており、価値の保存という考えはここにはない。
労働で言えば皿洗いするからそばを食わせてくれといったものがこれに相当する。
この物々交換には時間という尺度が欠落している。
今日の皿洗いで来年の食事と交換するということは普通やらない。
皿洗いしたという証拠がないから食事をもらえるかどうかの保証がない。
ここでその証拠として将来何がしかの供給を受けるという証拠書類を作れば、それが契約書であり、お金という汎用的な書類と交換するという約束の書類をつくればそれが手形ということになるのだ。
いずれにせよ、お金(広い意味では小切手や手形)というものは過去のエネルギー生産の証拠書類であるのだ。
お金はこの証拠書類であるのだが、大きすぎたりすぐボロボロになるようなものだと不便である。
したがってそれと等価の象徴的な物で代用するほうが便利である。
システム技術者にはエイリアスと言えばピンとくるかな。
金(きん)が昔は使われた。
金はたまたま地球上ではあまり沢山はなく、しかも化学的に極めて安定しているので大変都合が良かったのである。
したがって、金本位制というまやかしの理論が生まれてしまった。
まやかしといったがこれは私は断言したい。
金本位制はが成り立つのはたまたま金の化学的な性質と埋蔵量とその採掘コストが微妙にバランスしていたからであり、本来のエネルギーとの等価関係はまったくない。
金そのものはそこからは一切のエネルギーを得ることはできず、お互いの約束だけで作られた価値に過ぎない。
よくアメリカが金本位制を崩してドルを自由に印刷できるようにしたから世界の経済に歪が生じたというような話をきくことがあるが、これは見当ちがである。
問題はドル印刷システムの出来不出来によるものあって金本位制とは関係がない。
例えば、金本位制の体勢下でいきなり新規の桁違いな膨大な埋蔵量をほこる金山が発見されたとする。
金本位制なんかふっとんでしまうであろう。
金は金自体に価値があるのではなく、たまたま代用品として地球上での諸条件が整っていただけの話なのだ。
例えば、金が核分裂したりしてウランのようにエネルギーそのものを生む存在であれば話は全く違うのであるが。
話を本筋にもどそう。
お金というものは過去に発生したエネルギーの証拠であり、現在のエネルギーと交換できるものであるということが一番大切な原点である。
こうした視点でインフレ、デフレという現象を考えてみたい。
まず、インフレとはどういうことか。
これは教科書的に言えばお金の価値が下がる現象をいう。
お金の価値が下がるということは、先のお金の原点から考えるとどういうことを意味するのだろう。
それは、過去の価値を割り引いて評価する現象だということができる。
つまり、時間という要素が価値の低下をもたらすということだ。
つまりお金が生ものになったと考えれば良い。
同じエネルギーを発生してもより現在に近い時点での発生により高い価値を見出すというのがインフレだ。
同じ10時間の労働でも去年の10時間より今の10時間の方に価値があるという考えというか現象だ。
このインフレという現象は私は大変理にかなった現象だと思う。
それはまず人間というものが寿命という時間に対して有限の存在であるということ。
価値の行使は寿命の範囲で行わなければ基本的には意味がない。
したがって時間というのは個人にとっては大変な価値変動をともなうのだ。
つまり価値とはエネルギーと時間を要素とした関数でとらえることも可能だ。
分かり易く言えば、エネルギー発生で最も価値があるのは「現在」ということだ。
インフレというのはエネルギーという普遍の価値を時間という要素を加えることで人間にとっての価値に変換するシステム(あるいは現象)ということができる。
逆の見方をすればインフレとは過去の価値を減少させる現象だ。(しゃれじゃないぞ)
いくら大金を持っていてもそれをタンスにしまっていたのではインフレ社会では段々価値が目減りしていく。
しかし、負の資産(借金)を持っていればそれも減少させてくれる。
つまりインフレとは良きにつけ悪しきにつけ過去を水に流すシステムなのだ。
過去を適当に流してくれるシステムというのは、失敗した人々に再起のチャンスを与えるシステムであり、社会全体に躍動感を与えてくれる。
また人はコンピュータのように全てを無傷で永久に記憶するといった能力もない。
過去の出来事は少しづつ忘れているのだ。
価値の減少がこうした記憶の減少とスピードがある程度同期しているのが社会システムとしては最も健全なすがたではないか。
しかし一晩にして価値が半減するといった極端なインフレは人々の心を荒廃させる。
こうした極端なインフレ社会では宵越しの金は価値がなくなるのでその日の内に使い切るのが良いということになる。
蓄えるという発想はできなくなる。すべての行為が刹那的になる。
これは健全ではない。
ゆるやかなインフレこれが理想なのである。
では次にデフレという現象を考えてみよう。
最近新聞テレビ、週刊誌何を見てもデフレという文字を目にしないことはない。
デフレとはいったい何なのか。
商品の価格が下がることくらいはサルでもわかる。
物が安く買えるのだから良いではないか、といった議論もある。
物を作ったり売ったりする方も商品単価が下がるのだけど原料や仕入れも下がるのだからマイナスばかりではないだろうという意見である。
これは原理をまったく理解していないとんでもない考えだ。
この価格が下がるというのは本来何を意味しているのか。
これもお金は生産エネルギーの証拠書類であるという原点に返れば本質を理解できる。
価格が下がるというのはお金の価値が上がるということである。
お金は過去の発生価値である。
実際に発生したエネルギーは不変である。
つまり、デフレとは過去の発生エネルギーの対価を水増し請求する制度なのだ。
過去に金貸しをした者は、その相手に対して何倍ものエネルギー発生(労働)を要求することができる制度なのだ。
過去を水に流すどころか過去の出来事を実際以上に大きく評価していく社会なのだ。
インフレは過去を清算する機能がある。
ある時点どんなに貧富の差があってもそれを時間が平準化する機能がある。
デフレは過去を拡大していく現象だ。
過去の借金は止め処も無く拡大していく。貸してるほうは例え利息が無くとも時間とともに利益が増大していく。
ある時点の貧富の差をどんどん拡大していくのがデフレだ。
お金(過去の価値)はなるべく後に使うほうが有利なので、お金持ちは必要最小限意外のお金は使わなくなる。
もちろん投資などはよほど有利な保証がなければ行わない。
社会全体としては、死んだように活力のない不健康なものになっていくのである。
若い人が無気力になっていく一因もここにある。
まとめ
物の不足が経済というシステムを生んだ原点である。
工学はシステムの作成、経済学はシスムの運用。
全てはエネルギーに帰すことができる。
お金は過去に発生したエネルギーの証拠書類。
インフレは過去を水に流し社会に活力をあたえるシステム。
デフレとは過去の価値を水増し請求する不健康なシステム。
今回はエネルギー以外の価値、特に文化および精神論に関しては意識的に排除した。
なぜなら、精神論や文化論が経済の本質的な論議を面倒なものにすることが多いからだ。
もちろん精神論や文化論は重要な要素ではあるが、これを本質的な誤りの隠れ蓑として使われるケースが多いからである。
汗水たらして働くという労働の精神的な価値は誰もが知っていることである。
しかし、エネルギー発生源としての労働力の算定には不必要な議論である。
私は経済の専門学者ではないので、ここでは「子供が発見した月」も多いであろう。
ただ,もの言わぬは腹ふくるるわざということもあり、最近ちょっと腹をへこませたくなったのだ。
また時間があれば、ではどうしたら良いのか、という議論に入ってみよう。
長くなったので今回はここまで。