2013/04/23
Window8を使い始めて数か月がたつ。
なかなか良くできたソフトであるが、専門家にはウザイ。
何がウザイかというと何でも勝手にやってしまうことだ。
まあこの傾向はwindows8だけに見られる事ではなく、マイクロソフトのコンセンサスそのものがウザったいのた。
じゃをアップルはウザクないのかというとこれはそれにもっと輪をかけてウザイ。
というよりこのウザったい流れを作ったのはアップルであって、マイクロソフトはそれを真似たに過ぎない。
昔アップルが今のGUI流行のきっかけを作ったMacOSの開発途上の逸話がある。
「ファイルを削除する」ということを感性にうったえるGUIとして、ゴミ箱に書類がヒラヒラと落ちるという絵を誰かが思いついて、それを発表したとき、大歓声が上がって皆で徹夜の大パーティーになったという話を聞いた。(真偽のほどは不明)
ファイル削除をゴミ箱に捨てるという表現になったのはこういういきさつがあるそうだ。
私はこれで歓声があがるという感性が理解できない。
マウスが出現した時、取引先のNECの担当の人が自慢げに私のオフィスに持ってきた。
こいつがこれからの入力デバイスの革命を起こすと熱く語っていた。
その後何十年もその通りにはなっていったが、私はマウスは大嫌いだった。
私は即座にマウスはやがて消えると言った。だいぶ時間がかかったが事実今や消え去ろうとしている。
マウスの話はどうでもよい。
マウスだけの罪ではないからだ。
そもそもコンピュータと人間のマンマシンインターフェイスをどのようにすべきかという問題にこれらは全て収束される。
「コンピュータは人間の奴隷なのか友達なのか」という問題に置き換えると話が見えてくる。
民主主義の世の中では「奴隷」という言葉はあまり良い響きを持たない。
一方「友達」という言葉は受けが良い。
だからコンピュータは人間の奴隷である、という主張はちょっとトゲを感ずる人が多い。
まあ、友達のほうが無難な響きがある。
これが問題なのだ。
コンピュータは奴隷でなければならない。
奴隷は主人との対比によってその立場が極めて明確な概念だ。
全ての決定権は主人にあり、奴隷は奴隷であってそれ以上でも以下でもない。
奴隷には何の決定権もない。
まして権利など皆無である。
欧米では主人と奴隷という関係は論理的、物理的にも確立された概念で妙な擬人的な感情移入なくして使われている。
例えば、パソコンに入っているハードディスク。
2台入れる時はどちらかがマスターとなり、残りがスレーブになる。電源を入れ自動的にブート(起動)する方がマスターディスクだ。
マスター、スレーブは日本語では主人と奴隷だ。
原子力発電所の事故やついこの間のボストンマラソンのテロ事件で犯人逮捕で有名になったロボットアーム。
遠隔操作でロボットアームを動かすとき、人間が操作する方のアームをマスターアームとよび、遠隔操作されるアームをスレーブアームと言う。
危険な場所で動いているスレーブアームは、安全な場所から指示するマスターの言う事を機械的に聞いて実行するだけだ。
スレーブには勝手に動く権利はまったく与えられていない。
マンマシン・インターフェイスはこのマスター・スレーブの関係を論理的に理解しなければとんでもない過ちを起こす。
ローマ時代から奴隷を労働力として使ってきた西洋の歴史はある意味このクールで論理的な関係を文化として認識している。
もちろん歴史的、人道的な見地から奴隷制を擁護する気持ちは私も微塵もないが、システムとしての奴隷制は、その対象が人間から機械に変わった時点では大変参考になるのである。
まず、基本、奴隷は主人に対し忠実でなければならない。
考えたり指示するのは常に主人であり奴隷は与えられた命令を実行するのみである。
命令の適否を判断する権利は与えられていない。
だからこそ、主人は命令を与えるには慎重にそして明確に決断しなければならない。
奴隷は与えられた命令を実行し、実行し終わったら新たな命令を待っていなければならない。
奴隷の日常は主人の命令をじっと待っているというものだ。
全ての行動は命令で引き起こされるからだ。
GUI以前のコンピュータの仕組みは、このマスター・スレーブの関係が明確である。
人間がコンピュータに対しできる行動は命令することだけだ。
この命令をコマンドと言う。
一方奴隷であるコンピュータは命令が来るまでじっと待っている。
この命令を待っている状態を表すのが、ディスプレイ上で点滅しているカーソルだ。
これをプロンプトと言う。プロンプトとは命令を待っている状態を画面で表示する印の事だ。
主人(マスター)である人間が命令待ち(プロンプト)の奴隷(スレーブ)であるコンピュータに命令(コマンド)を入力し、それを実行しては、次の命令(コマンド)をプロンプトを出して待っている状態、これがコンピュータの普通の状態なのだ。
このマスター・スレーブの関係を壊したのがGUIだ。
GUI はグラフィカルユーザーインターフェイスの略で、WindowsやMacの画面でマウスでポインタを適当なところにもっていってクリックしてコンピュータを操作する現在最も使われているマンマシンインターフェイスである。
実はマスタースレーブを壊したのはGUIそのものではない。
GUI 自身には何の罪もない。
この関係をこわしたのはGUIと親和性の良いイベントドリブンという方式なのだ。
このイベントドリブンこそが現在のコンピュータの害悪の根源である。
結論を先に言うと、奴隷に人格を与え、権利を与え、命令以外の事を実行する機会を与えたシステムなのだ。
コンピュータが忠実な奴隷ではなくなった歴史的瞬間がそこにある。
これがMacでありWindowsの正体なのだ。
コンピュータに人権があるとするならば、MacやWindowsは革命的な大改革をやったことになる。
ビルゲイツやスティーブジョブは奴隷解放のリンカーン大統領に当たる。
どういう事か説明する。
イベントドリブンとは、命令(コマンド)する能力のない人間でもコンピュータを動かすことができる仕組みだ。
つまり、コマンドを知らなくても、言葉がしゃべれなくても奴隷に何等かの行動を取らせることができる仕組みだ。
コンピュータの方からやるべき事のメニューをあらかじめ用意し、人間はそのメニューの中から好きなものを選択するだけで後は勝手にコンピュータが動いてくれるというのものだ。
プロンプトを出されて黙りこくっているコンピュータを動かすには、意味のあるコマンドを適宜出し続けなければならない。
だからコマンドの意味が分かっている人間したコンピュータを動かせなかった。
しかしイベントドリブンは、コマンドなんか皆目わからなくても、メニューから選ぶだけなので、めちゃくちゃでもとりあえずコンピュータを動かすことはできる。
マウスで適当なところにポインタを持っていてクリックするだけで良いのだから。
論文式の試験では何も書けなくても、解答選択,式の試験ではとりあえずあてづっぼうでも何とか紙面を埋めることはできる。
この解答選択式のやり方がイベントドリブンと言われている方法の本質なのだ。
ここで、主人と奴隷の関係は大きく変わってくることになる。
主人はいくつかの候補の中から自分の意思で一つを選択した。
その意味では、主人がイニシアティブを取った命令を奴隷に与えたことにはなる。
しかし、その選択肢の中身を理解できないままめくらめっぽうで適当なものを選んだとする。
奴隷は、その選択肢の中での実行の裁量を与えられたことになる。
バカ殿の「よきにはからえ」というやつだ。
どんなに奴隷に忠誠心があり、善意であったとしても、その行動は既に奴隷によってコントロールされているという実態がそこにある。
しかもその奴隷の意思は別の隠れた主人によって作られた物(OSやアプリ)なのだ。
ウインドウズは、忠実な奴隷を目指して作成されているとおもうが、忠誠を誓った主人は貴方以外かもしれない。
表面的には人間のミスや誤謬をただして善意に拡大解釈していろんな事をやってくれる。
ただし勝手に、あるいは別の主人の思惑にそって。
Wardというワープロソフトがある。
今に始まったことではないが、いろんな事を勝手にやるということでは悪評高い。
「拝啓」で始まる文章を書くと自動的に文末に「敬具」が付く。
数字を入れた箇条書きをすると、自動的に連番で数字を入れてくる。
アルファベットを入れると文頭は自動的に大文字になる。
勝手に祈祷割りを実行する。
そのた数え上げれば切がない。
もちろんそうした便利(?)機能はオフにできる。
しかし、何もしないとデフォルトでそうしたおせっかい機能が働く、勝手に。
最新のOFFICE13はこんなものではない。
セットアップの時点からクラウドを意識しており、普通にインストールすると勝手にマイクロソフトのクラウドサーバに文書を保存するようになる。
クラウドはそれは素晴らしい発想であり、私はこれを推奨はしている。
しかしそれはクラウドの仕組みや原理を大まかにでも理解できる人だけにだ。
一般の素人がわけもわからずイべントドリブンの選択で使っているのは本当に恐ろしい。
スマフォの無料アプリなんかもそうだが、なぜ無料なのか。
なぜデフォルトでそういう設定にしたがるのかを考えてほしい。
本来スレーブの分際であるべきコンピュータに白紙委任状を渡す事の意味、怖さを知る必要がある。
人間と違ってコンピュータのスレーブは自主的に権利に目覚めるわけもない。
私たちがマスターを放棄した時には、影のマスターがこのスレーブを操っているのだ。
自分ではマスターのつもりの裸の王様の群れが現在のパソコン世界の実態だ。