仮定の話
「仮定の話には答えられない」という逃げ口上がはやりだしたのはいつごろからだろう。
責任とりたくないやつらにとっては余程便利な言葉なんだろうね。
武道をやっている者にとっては笑ってしまう言葉である。
似た言葉では
「・・・にIFはない」
「たら、ればの世界」
という言葉がある。
強いて屁理屈を言えば「仮定の話」は未来に向かった「もしも」であり後者は過去に遡った「もしも」である。
「敗軍の将兵を語らず」なんて言葉は後者をかっこよく言ったものだね。
こんな無責任な言葉はない。
敗軍の将は真摯な心で負けの現状と対策を後につづくものに語ってこそ次の勝利につなげることができるのではないか。
まあ、今回は敗軍の将の話はおいといて、仮定の話にテーマを戻そう。
我々武道を志すものは、その原点は全て仮定の話から始まる。
まず、武道を護身術として捉えた場合。
全ての護身術は「仮に暴漢にこういうように襲われたら」という前提から始まる。
護身術の全ての体系は仮定の話から出発し、仮定の話で終わるのである。
次に武道を格闘術として捉えた場合。
空手であれば、技術は攻撃の技術と防御の技術に分けることができる。
防御の技術は全て「もし敵が顔面を突いてきたら・・・・・」
とか「もし中段(おなかのあたり)を蹴ってきたら・・・・」
という仮定の攻撃に対しての対処法として体系そのものができている。
具体的に言えば、上段受け(上げ受け)は、顔面への正拳突き(ボクシングで言えばストレート)を想定したものだし、下段払いは中段への前蹴りを想定したものだ。
一方攻撃の技術は相手の隙を見つけることから全ては始まる。
隙というものも全て仮定の話だ。
「私は現在顔面が隙だらけです」と張り紙をしてあるわけではない。
相手の立場に立って瞬時に相手の防御の手薄(かもしれない)なところ、打たれ弱い(かもしれない)ところを判断し(全て仮定である)そこを攻めるのが攻撃の技術である。
そして稽古とはこのような状況を事前に多く取り揃え(つまり全て仮定である)、その仮定に対しての対処方法を事前に繰り返し繰り返し反復練習することを言うのである。
空手の基本といわれる動作は敵の攻撃を仮定したところからできているのだ。
次に護身術ではなくて、競技空手やボクシングの試合を想定してみよう。
これも、わざわざ言うまでもなく、事前の準備やトレーニングは全て相手の攻撃や防御を仮定して対策するのは当然のことだ。
対戦相手の過去のビデオを見れば、当然もし自分だったらという仮定で研究なり対策をするであろう。
全ての武道はその技術的側面(武術)だけに限っても仮定の話で構築されているのだ。
武術というのは個人レベルの格闘技術であるが、これが対象を集団や国とすると戦術(兵法)ということになり、対象を武力行使だけでなく、政治、社会、文化のレベルまで拡大すると戦略ということになる。
対象が個人であろうが集団であろうが、理不尽な暴力に対処するには事前(仮定)の研究なり訓練は不可欠である。
仮定の話というのは不可欠であるというより、それなくしては社会全てが成り立たない。
「仮定の話には答えられない」というこのお笑い草のセンテンスは何を根拠にしているのか。
なぜ、このセンテンスに皆黙ってしまうのか。
「仮定の話に答えたものは死刑」といった規則でもあるのかね。
そもそも、武道をもちだすまでもなく、あらゆる法律や規則も仮定の話でできているのだ。
「もしも駐車違反したら罰金○○○円ですよ」というのは仮定の話でなければ何なんだ。
「仮定の話には答えられない」という言葉を堂々と発声し、そしてその言葉に黙ってしまう世相にあきれる。