ヒット カウンタ

弱者を強くするのが武道


最近の経済ニュースを聞いていると、弱者を切り捨てるのが改革だと言っているように聞こえる。
不良債権の話は別のコラムで書いたのでここでは深くは言及しない。

私は、最近の経済の話題を聞くたびに武道に思いが行ってしまう。
不良債権を処理する(この言葉も嫌いだ)ということは言葉を飾らず言えば、弱者を処分するということだ。

つまり、弱い企業や個人を社会から退場させるということだ。
まさに弱肉強食をそのまま放任するということに他ならない。

弱肉強食は自然の哲理であると言ってしまえば全ての思考は意味を成さなくなる。
弱肉強食、言葉を変えれば適者生存という言葉を社会の公理としてしまえば、あらゆる規範や倫理、道徳は不必要になる。

弱い者が理不尽な暴力に蹂躙されようと、体の弱い子供が病気に苦しんでいようが、弱肉強食、適者生存を唱えていれば何もしなくても全て免罪されるのか。

勿論、何の努力もしない怠け者を無条件に助ければ良いというわけではない。
努力しない人間は救いようがないのは当然である。

意思を持った人間なら弱い者も強くなれる道があるし、その方法を知らしめたり、サポートする方法もある。
強くなった者は弱い者のためにその方法を教えたり、伝えるのも武道の伝統としてある。

私は武道を志す人間だが、武道の目的は弱い人間を強くすることにあると信じてそれを実行している。
今まで道場で「強くなれ」と何回、何百回いや何万回言ってきたか知れない。

強くなれという言葉はもともと強い人間には必要ない。
弱い人間だからこそ強くなる必要があり、武道はそれを可能にできる極めて有力な手段の一つなのだ。

道場の門をたたく人は本当に様々だ。
今まで運動らしい運動をまったくしたことがないというよな人からゴリラのような偉丈夫まで。

しかし、皆に共通しているのは「強くなりたい」ということ。
どんなに弱そうな人でも、もう十分に強いのではないかと思われるような人でも、主観的には皆自分のことを弱いと思っているのだ。

弱いとは思わなくとも、少なくとも自分が欲する十分な強さには程遠いと思っていることは間違いない。

武道とは弱者を強くする手段である。
弱者を切り捨てる手段ではない。

武道の指導者に課せられた責任は、強くなりたい人間を強くすることである。
勿論人間には持って生まれた素質というものは存在する。

何もしなくても生まれながらにそこそこ強い人も居れば、風が吹いても骨が折れるような人もいる。
しかし、どんな人でも訓練によって少なくとも今以上には強くなる。

そして、その能力の伸びの程度は本人が想像していた程度をはるかに越えるものである。
人間は、本質的には遺伝的素質の限界点を持っていると思う。

しかし、その理論的限界点というのは、まだ誰もその到達点を知らないほどはるかかなたにあると思う。
例えば、マラソンの記録を見てみよう。

かつてヘルシンキで五輪史上唯一、同一大会で長距離3冠(5000メートル、1万メ ートル、マラソン)を達成し「人間機関車」と呼ばれたランナー、ザトペックといえば、知らない人はいないであろう。
彼のマラソンの記録は2時間23分台である。

この超人的なランナーの記録はわずか50年後、まだあどけなさの残る日本の女性ランナー高橋尚子に追いつかれるのである。
マラソンに限らない、あらゆるスポーツの記録は果たして人間に限界はあるのかと思わせるほど上昇を続けている。

私は、これらの記録が無限に伸びるとは決して考えてはいない。
しかし、人間が本質的にもつ遺伝的限界というのは、今の我々の想像を絶するほど彼方にあることは間違いないと思っている。

私は、空手を始めるのに適した年齢、資質は当然あるとは思うが、ある個人にとっては、資質の不足、また遅すぎる年齢というのは考える必要はないと思う。
今までの自分より強くなれるのであれば、それで十分ではないのか。

空手をやれば、少なくとも今の自分より強くなれるのは間違いない。
大切なことは、やればできるということを実感すること。

そして、能力の伸びの限界は、まだ想像を絶するほどの余裕が誰にもあるということ。
人間はやればできる、ということを実感すれば、やることに充実感を感じ、楽しくなってくる。

楽しくなれば、またやりたいと思い、やればまた強くなる。
こうして、結果として人間は自己改造ができていくのである。

また、同好の士が集まれば、お互い切磋琢磨したり、悩みを相談したり、また他人からヒントを得られることもあろう。
道場とはそういう場である。

また、そういう場にするのが指導者の役目である。
具体的に言えば、様々な年齢や体力の差を考慮し、安全に、しかし厳しく、個々の制約の中で各自の最高の可能性を追及できるようにルールを作ったり、サポートするということだ。

弱い自分が強くなっていく過程は大変楽しいものである。
これはやった者にしか分からない感覚であるが、努力することが楽しくなってくる。

本能に根ざした感覚なのであろうか。
わたしにもよくわからない。

私自身も、空手を通じて「やればできる」という感覚を持った。
しかもそれは、自分だけでなく、自分と一緒に行った仲間や、指導した多くの後輩達を見ることで、実証された事実として認識されている。

だから、私は努力しないであきらめるということが大変嫌いだ。
「あきらめる前にまずやってみろ」と言いたい。

少しでも可能性があれば最後まであきらめずチャレンジする。
こういった精神を持った人を私は強者とよび、自分もそうなりたいと思うし、指導する後輩たちにもそうであって欲しいと念願する。

話は、不良債権処理に戻るが、この不良債権とは債権者からみれば弱者である。
「処理」という言葉には、再建とか指導といったニュアンスは感じられない。

そこにあるのはひたすら弱者切り捨ての指向性だ。
いや、そうではない弱者救済のセーフティーネットというものも考えています、という。

しかし、このような一旦切り捨てた弱者を強制的に施設に放り込むような考えは健全ではない。
道場であれば、弱い道場生や不良道場生をどうするかという問題に相当する。

弱者を切り捨てれば、強い者だけが残った道場になるだろう。
そして、その道場は優良道場ということで株が上がる。

これで良いのか。
武道とは弱者を強者にしてこそ武道である。

そしてこれは実は武道だけでなく人間社会全般に通ずる真理であると思う。
この単純ではあるが本質的な日本の伝統的な哲理が今の日本の社会では希薄になっている。

弱者を切り捨てるのではなく強者に変える方法はいくらでもある。
不良債権を優良債権にする方法とて同じである。

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