空手をやり始める動機は人様々である。
喧嘩に強くなりたいといった単純な動機もあれば、運動不足解消や健康増進のためといった軽い動機もあるだろう。
一方内面的な問題や課題を解決あるいは追求するために取り組む方も少なくない。
特に外国の方にはこういった精神的な課題が動機になっている例を多くみる。
ただ、どのような動機であっても、その根本的なところには「強くなりたい」といった共通の気持ちがあることはまちがいないのではなかろうか。
いや、私は優しくなりたいから空手を始めたのだ、という方もおられるかもしれない。
この場合でも、弱くても良いから優しくなりたいということではなく、強くて優しくなりたいという事だと思う。
なぜ人は強くなりたがるのか。
それは、究極的には、人は本当の自分でありたいと思う本能のせいだと思う。
理不尽な暴力や理屈の通らない圧力で自分の意志や生き方を捻じ曲げられてしまった経験があれば、その憤りが
こうした本能に火を着けることは皆経験があるのではないか。
もし、あのとき自分にもう少し強さがあれば、とかあの時もう少し勇気があればといった思いは誰に
もあると思う。
そうした弱さを克服したいという気持ちが空手を始める原動力になることは珍しいことではない。
しかしそうした動機で空手をやり始めてみると、当初の動機とは別に空手そのものが持つ別の魅力に惹きつけられて空手のとりこになることは多くの有段者が経験していることだ。
理屈抜きで空手は面白いのだ。
そして黒帯を取り、自他ともに一定の実力の評価を得るころには、違った目標をもつ自分に気がつく。
ただ、単に強くなりたいといった敢然としたものではなくより具体的なものになってくる。
体力や技術といった直接的な目標ももちろんあるだろうが、もっと大きな目標も現れてくる。
その表現は人それぞれであるが一言でいえば自己実現ということに集約されるのではないだろうか。
英語でアイデンティティーと言った方がかえって分かりやすいかな。
特に、最近の日本のように、古い規範と新しい規範が錯綜して、社会全体の秩序があやふやな状態では、ますますこうしたアイデンティティーの確立が求められる状況でもある。
それは、本来空手とは関係ない世界であるはずだ。
自己実現とは自分の意志と存在理由を明確にして、社会の中での居場所と生き方を明確にしていく過程のことだ。
そのためには自分を知らなければならない。
自分の能力や意思、そして「かくある」現状と「かくありたい」将来への希望などだ。
一方自分が属する社会のことも理解しなければならない。
自分の住んでいる地域のこと、会社員であれば会社のこと、そして日本人であれば日本のこと。
外国人であっても日本に住んでいるのであれば当然日本のことを理解する必要がある。
こういったことは社会人として人間として当然のことであって、空手とは無関係である。
こういった現状認識を踏まえて、自分にとって空手とは、といったことに行き着くのだ。
「なんだ大げさな。俺は空手は単なる趣味だよ」
という人もいるかもしれない。
確かに、趣味としての一面は当然あるし、軽い気持ちで始めることもあるだろう。
しかし、空手には他の趣味として捉えられる習い事とは明らかに異なる点がある。
それは、空手の技術面から捉えた「目的」だ。
空手の技術とは一言でいえば「素手で人を殺すテクニックの集大成」である。
これは、音楽や美術や他のスポーツにはけっして無い決定的な事実だ。
この、一つ運用を間違えば、大変な犯罪や反社会的な行動につながる技術を習得するのが空手の現実的な中身なのだ。
この点が、他の趣味やお稽古事と決定的に異なるという点を自覚しなければならない。
我々が毎日熱心に追求している技術は「人を殺すため」の技術だ。
何のためにマキワラで正拳を鍛えるのか。
貫き手の稽古はなんのためか。
前蹴りで上足底を返し接触面積を小さくして腹を蹴るのはどういう意味があるのか。
なぜ水月(みぞおち)を狙うのか。
なぜ人中を狙うのか。
これらの「なぜ」の答えは明らかだ。
ピアノの練習や絵画のレッスンの「なぜ」とはおよそ真反対の答えがそこにあることを自覚しなければならない。
「単なる趣味です」では済ませられない大事な要素を忘れてはいけない。
そしてこの要素は強くなればなるほどその重要性が増してくる。
一方、この「人を殺す技術」を、自分も含めて「人を活かす技術」として捉えて修練する規範とその精神を「武」と表現しても良いと思うが、その武を追求する過程および心構えを集大成した「武道」としての空手の捉え方がある。
空手に興味のある外国人と話していてよく聞かれる言葉に、
「武道とは何ですか」という言葉がある。
武道とは「人を活かすためのハウトゥー」です、と言っても内容は全然伝わらない。
ハウトゥーというレベルで解説すれば、当然それは「人を殺傷するためのハウトゥー」であることは間違いないのだから。
「人を殺す技術」がなぜ「人を活かす技術」になるのか。
この答えを考えることが武道追求の最初の課題であり、また最後の課題でもあると思う。
この答えは武道を真剣にやっていればおぼろげながら形は見えてくる。
そして言葉ではうまく言い表せなくても、その本質はつかめてくる。
武道という言葉は武士道という言葉とともに戦前、戦後を通じて様々な世相やイデオロギーによって内容が捻じ曲げられてきた。
その言葉を好む陣営にも好まない陣営にも本来の意味とはかけ離れたイメージをかぶせることによって利用されてきたのである。
本来の武道は、自他を含んで人を活かす道を追求するものであり、個々人の活力と勇気を増し、自尊他尊の精神で秩序ある社会を形成することに寄与するものでなければならない。
我々日本人はこの世界に誇れる武道という文化をその原点にかえって、偏狭な色眼鏡を取り除いた真摯な目で見つめなおしたいものである。
空手をやっているものは、いつか弱い自分から強い自分に変わりつつある事を自覚する日が必ずくる。
そこには、今までとは違った自分の姿を見ることができる。
そして、それを前提とした新たな自己実現の道を開いていくことができるようになる。
その頃には、「武道とは」といった命題について自分の言葉で語れるようになっているであろう。
またそうなってほしい。
私は「武道とは」という命題に関しては、武道の実践者が100人いれば100様の答えがあると思う。
しかし、真剣に実践してきた者が発した言葉であれば、表現は異なっても、その本質に大きな違いは無いと思う。
空手とは徒手空拳のみで追求された武道であり、その空手は自己実現のための一つの手段である。
自己実現には理不尽な暴力に屈しない勇気と精神力が必要であり、その過程を通して武道の「人を活かす」という本質を自分の感性と言葉で理解してほしい。